我々は「セカンド・バージン」に何を求めたのか?

NHKで放送が開始された瞬間に、大きな話題となったTVドラマ「セカンドバージン」が映画化となった。何故、大きな話題となったか?それは最近のTVドラマには珍しいラブシーンが毎回見られるということだった。手元にそのDVD-BOXがあるがまだ見ていない。しかし業界内で放送が始まった瞬間に“NHKもやるねぇ”という話が広がった。この“〜やるねぇ”は「ハゲタカ」などのハードな社会路線の時にも聞かれたが、これとのニュアンスは当然違うものだった。

45歳のヤリ手女編集長(鈴木京香)と17歳年下の金融関係の若手社長(長谷川博己)との不倫ドラマということだ。若手社長の方に妻(深田恭子)という三角関係。宣伝文句に『スキャンダラスな純愛』とあり、映画の劇中でもあるように“若いときに離婚してから、ずっと男を知らないの”という台詞がキーワードがゆえの作品タイトルだろう。では、TV放送時に回を追うごとに上がった視聴率が示すように、視聴者は「セカンドバージン」に何を求めたのであろう?そして今回の映画には何を求めたのか?

簡単である。昭和的にズバリと言わせてももらえば、“濡れ場”だ。文豪渡辺淳一作品の映画化作品(不倫モノの大先輩じゃないですか!)を例に上げるまでもなく、そこに求められるものは主演女優の美しい裸である。代表作を挙げるなら「ひとひらの雪」の秋吉久美子、「失楽園」の黒木瞳、「愛の流刑地」の寺島しのぶなどの女優の艶技だ。そして観客は、現代では男女の年齢が逆転しても(渡辺文学は中年男性と若い人妻のパターン)、不倫は成立するとして、このドラマを歓迎したはずである。

その歓迎ぶりは女子に多いとと聞く。年下の男を演じた劇団系の俳優、長谷川博己が女子のハートを捕らえ、韓流化現象のようとのこと。しかし、その女子たちにしても結局は“濡れ場”への期待は高い訳で、大物女優鈴木京香の裸身は観賞したいはずだ。そうした期待にTV側としては頑張って答えたようだが、さてそれが映画ともなると、その期待値のハードルが上がることは必然なのである。

しかしながら、そうした観客の期待に答えようとしないところが、この映画版「セカンドバージン」の決定的なマイナス点となってしまった。製作決定の一報があった後、業界関係者に聞いたところ『期待を裏切らない、すっごい描写があるようでっせ!』だった。結局、こちらが過剰な期待を寄せたことになってしまうのだが、TVに出来なくて、映画に出来ることと言ったら『すっごい描写』でしょ。

崔洋一監督の傑作「血と骨」での北野武鈴木京香の絡みは素晴らしかった。でも足りないものがあった。鈴木京香の裸体だ。それがあれば「復讐するは我にあり」の小川真由美倍賞美津子になったのになぁ、と思ったものだった。まぁ、崔洋一に脱がせられなかったんだから、この映画で脱ぐわけないか。おそらく現代の映画界、見せることで格が下がると思ってしまうのだろう(事務所が?)。しかし、鈴木さん、今回だけは見せない(脱がない)ことで大きく株を下げましたよ。

では、映画そのものの出来はどうであったのか?まず、誰でも疑問に思うことは『なんでマレーシアなの?』だろう。何かこの国は、TV版の最後の展開に関わりがあったのだろうか?それともTVとの差別化で、海外ロケで単なるスケールアップを狙っただけ?そこが意味不明なまま映画は進む。こんな海外での日本人襲撃事件だったら、不倫相手の看病どころじゃないでしょ!

インドシナで出会った男女が、どこまでも堕ちてゆく成瀬巳喜男の名作「浮雲」へのオマージュか?でもそこに映し出される画面は意外や魅力的で、鈴木京香に寄りすぎない引きの画面のキャメラワークがちゃんと映画していた部分は好感度を持ったが、それ以外はやはりTV枠ないのものだった。

しかし、結局TVを見ていないと、わからない部分が多く、特に妻役の深田恭子が映画版では意味不明で、まったく何のために出てきたか分からんぞ。「ハゲタカ」の時もそうだったように、NHKの映画化作が特にドラマ放送見てないと分かりません、の作り方が目立つのである。

かつて東映には、前に記した文芸エロス作があり、松竹には「五番町夕霧楼」、「配達されない三通の手紙」(松坂慶子のなんと美しい裸体だったことか!)などがあり、観客の期待に応えていた。もう、そうした期待には、どこの映画会社も答えられない状況であることが、よく分かった1作でした。