マイケル・ベイはなぜ批評家から嫌われるのか?

映画の興行的価値と批評は別物であるとよく言われる。確かにハリウッドの娯楽作品を見てみれば分かるが、、1億ドルの興行収入をあげるヒット作でありながら、批評家からは総スカンをくう作品はザラにある。そしてそうした作品を作り続ける、代表的な監督こそマイケル・ベイだ。95年に「バッド・ボーイズ」で監督デビューしてから現在まで、ラジー賞の常連として燦然と輝いていながら、稀代のヒットメーカーとして君臨しているという誰にも真似できないポジションにいるのだ。

先日も「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」を引っさげて来日した際の記者会見の席で、“相変わらず批評家からは嫌われている”と自ら発言していたのにはちょっとビックリした。個人的には「ザ・ロック」や「アイランド」などは、脳天気に楽しめた作品だったので、『何も、そんなに皆んなして嫌わなくってもいいんじゃないの』と思っていたのである。

しかし、新作の「〜ダークサイド・ムーン」を見て思い知った。こりゃ、嫌われて当然だわ!もっと言えば、観客にもソッポむかれてしまうぞ!であった。これで『ラスト1時間はもっとも自信がある』などというコメント出してしまうんだから、嫌われますよねぇ。

100歩譲って、そのラスト1時間をいつもの『ベイ節』の闘う男たちとアメリカ万歳(「アルマゲドン」から少しも進歩していないなぁ)のアクションシーンとして一定の評価をしたとしよう。だが、その前の1時間半の苦痛たるや、どう頑張っても最後に帳尻を合わす事は出来なかったぞ!それほど前半は無惨である。今頃判ったか、と言われれば返す言葉がありませんが…。

思い返せば、第1作目の「トランスフォーマー」映画化に際してのアイディアや、技術面を抜きにして、純粋に物語として見た場合に評価する点は“恋人に出来そうな女子が、目の前にいながら何もできないダメ男君が、何かと出会うことによって(この場合オートボット)成長して彼女をゲット!”という青春映画の王道のパターンがあったからだ。

問題はここなのです!

「〜リベンジ」は、その獲得した彼女と遠距離(カレッジに入るっていうパターンも青春映画の王道だぞ)になり、危機を迎えるが再びサム君が地球を救うことですべて解決となる。ここまでは、お話としては許されるものだった。ところが、「〜ダークサイド〜」で、その彼女となるミカエラ役のミーガン・フォックスを降板させたことで、話そのものがおかしくなってしまったのだった。

あっさりとセリフの中で“ミカエラに振られた”として、とっとと新しい女をサムに(今回はなんの苦労もせず獲得)あてがっているではないか!それも就職もできないサム(無事カレッジを卒業したのですね)とは分不相応なセレブなお姉ちゃんで、バランス悪いったらない。その女優の名前は覚えられないぐらい長い名前の人なので、困ってしまうが、彼女に罪はない。罪は脚本である。その設定が不愉快極まりないのだ。

でもベイ監督は、そんな事はどうでもいいのだろう。、前半のほとんどは、いかに彼女は重要な役で、重要な女優で、この作品に必要なのだ。そしてミーガンなんか忘れてね、とばかりに、その女優にキャメラを向けているのだ。大体のことは女優が金髪であれば許してしまうが、今回ばかりは許せません。この女優さん、この映画にいらないでしょ!ミカエラ役がなければ、全く新しい「トランスフォーマー」としてサムとレノックスの、男同士の話で作れば良かったんだ!せっかくフランセス・マクドーマンドや、ジョン・タトゥーロがサブ・キャラでしっかり個性を発揮しているんだから、その部分はもったいないったらない!

まぁ「トランスフォーマー」を金属生命体アクション映画として見ていないので、そうした人物像のダメさで苦痛を覚えたのだが、そのアクションだけでいいって言う人、いるのでしょうか??