ATGの遺産とニューシネマの亡霊

残念ながらデビュー作「ゲルマニウムの夜」は未見(いつかスクリーンで見たい)なのだが、監督2作目の「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」で大森立嗣の演出っぷりに喜んでしまったのだが、新作「まほろ駅前多田便利軒」でもちゃんとその力量を示してくれた。彼の特徴は一言でいうと『ATG臭』が色濃く漂う演出っぷりで、それでいて現代の若い観客にもキチンと伝わる映画としていることだ。

アート・シアター・ギルド(会社名なのです)=ATG映画と聞いて“ああ、あの作風ね”と思い起こせる人は40半ば以上の年齢の映画ファンだろう。全盛は60年後半から70年代中頃までだろうか。いわゆる非商業主義的内容で、若い映画監督を積極的に起用して、低予算で(1000万円映画と言われましたね)作られた映画の(またはその会社製作作品)総称で、専門の劇場でかかっていた。

無理やり今の映画業界用語に当てはめてしまえば、『インディーズ・ムービー』と軽く言われてしまうタイプの邦画のことだが、当時の邦画自体が、ほぼ大手(東宝、松竹、東映など)が作る映画のことを指していたので、インディーズという言葉そのものがなかったのだ。よって大手スタジオか、ATGかという区別ぐらいだった。

若い監督が撮る映画なので、必然的に主人公たちも若く、内容はほろ苦く、イタイ青春映画が多かった。記憶に残っている作品では「正午なり」「星空のマリオネット」あたりだ。「帰らざる日々」もうっかりすると(にっかつ作品ですね)ATGと間違えてしまいそうな、似たテイストの青春映画。要するに、そうした似たテイストも含めたATG臭というものが、独立プロ製作の邦画には、いい意味で受け継がれているのだ。

本来だったら「ノルウェイの森」だって、もっとATG的になっていれば“なるほどなぁ”となったのに、外国人監督にそれを望むのは酷か?逆にいうとATGの作風にしてしまうと、メジャー感が出なくなるとも言えるのだ。実は「マイ・バック・ページ」も見る前、“ATG的だったらヤダなぁ”と思っていた。この映画にはメジャー感が必要なので、山下敦弘監督が「松ケ根乱射事件」のように撮っていたら、これほど感激していなかっただろう。

一方、アメリカ映画には大手スタジオの製作が立ち行かなくなって産まれたアメリカン・ニュー・シネマが存在する。スタジオ主義の娯楽映画ではなく、ロケーションを主体とした作り方で、反体制とカッコ悪い人物像をリアルに描いて(ハッピーエンドではない)見せた。代表作は「俺たちに明日はない」「イージー・ライダー」など。独断と偏見で、最高傑作は「真夜中のカーボーイ」だと考える。その時代とは、1960年代末期から「スターウォーズ」登場の77年までと勝手に時代を定義している。

そして現代のアメリカ映画でも、インディペンデントが製作する作品に、その影響を見て取れるものがある。でも実はそれらの大半は『ニューシネマ風に作ると、評価が上がる』という幻想に取り憑かれたものだ。「ブルー・バレンタイン」がそれ。

“ほら、こうして撮ると、こんな話で展開するとニューシネマぽくってカッコいいでしょ”と頭でっかちな若きアメリカの映像作家の勘違い映画でしかない。ジョン・カサベテス的な夫婦の崩壊を描いている辺りも、ウケ狙いが感じられる。カットバックで語られる、若き二人が出会って結婚に向かうという過去の部分と、二人の教養の差や人生観の違いを徹底的に描く現在の部分がまったく噛み合わず、イライラするだけ。

これほどまで、ニューシネマの亡霊に振り回されているのを、気付いていない映画も珍しい。また、それを評価してしまっている現代のアメリカ映画批評にも疑問を感じるのだ。残念ながら、こちらは遺産とその継承という風にはいきませんね。「ブローン・アパート」でグッときたミシェル・ウィリアムズ主演の作品だから期待したのだが…。まぁ、その演技面の評価は大いに出来ますが…。