賛否両論の「苦役列車」を楽しむ!

山下敦弘監督の「苦役列車」は、周りの意見を聞くと以外や『面白くない』『ダメだった』との意見が多かった。曰く原作が好きで、原作の貫太はこんなもんじゃないとか、主演俳優がカッコよすぎる、イメージが違うなどの意見で、逆に原作者の人気の高さを知らせてくれる結果となった。そもそも原作者がこれほど映画化作品についてコメントすること自体にも驚かされた。すません、原作者の方をまったく存じ上げなかったです。

池波正太郎氏が生前、自身の原作の映画化作品については“もう映画化されたものは監督のもので、原作とは別ものであり、自分はコメントする立場にない”というスタンスであり続けたのと比べてしまうと、これも時代の変化なのだろうか、と感じるのだった。

苦役列車」に関して言えば、このように出来上がった作品に対し、原作者のコメントがあったといった、いわゆる立ち位置が近いという部分が、今回の評価を賛否両論にしているのであろうか。しかし、それは映画を純粋に楽しむ立場の側としては、どうでもいいことで、そこに描かれている人物像がどれだけ魅力的であるか?また、物語として引き込まれるものがあるか?などの要因がすべてなのである。

作詞家の阿久悠氏が、黒澤明映画についてのコメントで『映画というのは、おそらく2種類しかなく、豪傑の映画か、弱虫の映画という2種類で、日本では豪傑の映画を撮る人は少ない。弱虫というのは悪い意味ではなく、人間の内面と、大きさがこの辺だな、と分かっている人物を主人公とする映画。黒澤は豪傑の映画を撮った監督』と言っている。このコメントの中の『弱虫の映画』に、今年の邦画で最も当てはまるのが「苦役列車」なのであった。

物語の主人公である北町貫多は、今までの映画だったら主役の人間のタイプではなく、よって共感もしにくい。自分の置かれた環境に対して、僻みまくって酔っぱらっているだけ。いわゆる人生に対し全く後ろ向きの男。この映画が『ダメだった』という人は、この主役の人物設定自体に入っていけなかった人だった。でも(ここまでではないが)、こんな人間像は以前ATG映画あたりでは結構描かれていたと思う。

そのATGタイプの登場人物の設定は、ほぼ地方出身者だったように思うが、それを東京の人間にしたところが、この映画に新しさを感じた。しかし、これ以外は意外やオーソドックスな青春映画の『真っ暗の穴蔵からの脱出劇』ではないか!日活ロマンポルノ的でもあるし、ATG的でもあるし、70年代東宝青春映画的でもあった。そう、時代設定は80年代後半ということらしいが、印象としてはもっと『昭和』であり『70年代』に近いものだった。

山下敦弘監督の映画は「マイ・バック・ページ」以降、役者をどう活かすか?のタイプになったのか、この作品でも森山未來をどう『嫌な奴』でありながら、物語の主人公でなければならないかを考えているようだ。そのための高良健吾であり、前田敦子であり、そしてマキタスポーツだったのだ。自分の無知であるが高橋役のマキタスポーツを今まで知らず、映画を見ながら『誰?この方?舞台関係の人?』となってしまった。「マイ・バック〜」の古館寛治といい、このマキタスポーツといい山下監督の映画はいつも魅力的な脇役が多い。

森山未來は、前作「モテキ」について言えば、モテないっていう設定に無理を感じるぐらいほどほど格好良く、そこに違和感を引きずった。しかし、この貫多はもっとリアルでスムーズに“こんな奴、ぜっていモテねぇ、勝手に風俗行ってろ!”と思える演技だった。この役者はこの後どうなって行くのだろうか?本当に凄いぞ!

女優・前田敦子は以前から評価していたが、今回は更に良い!貫多が東京人だが、前田演じる桜井康子は地方出身者の設定。この部分のいままで青春映画と逆のパターンが面白かった。これまでの青春映画だったら確実にダメ男の主人公は地方出身者であり、憧れるマドンナは東京のお嬢様という形だった筈だ。そうした東京にやって来て独り住まいする、脇のちょっと甘い女の子を前田は上手く演じた。見せ場はスリップ姿を見せる海に遊びに行く場面ではなく、アパートの隣に住む寝たきり老人の『下の世話』をしてあげる場面でしょ!

最も気に入ったのが、高良健吾演じる日下部を貫多が映画に誘う作品がシルベスター・スタローンの「コブラ」だったところだ。時代設定としての公開作品の中から選ばれたのだろうが、その時代の記憶から完全に落ちている作品であり、スピルバーグ印のようなメジャーでもなく、80年代単館系でもなかったところが、最もこの主人公の価値観が現しているようで“グッときた”のだった。

原作とか、原作者とか全く知らないで、普通に映画として見て「苦役列車」は楽しめる青春映画でした。