「ロラックスおじさんの秘密の種」のメッセージは…

ディズニーにおけるピクサー(これは別格か?)があり、20世紀フォックスにはブルースカイスタジオがあるように、ハリウッドメジャーは、それぞれアニメーションを専門に製作するスタジオを保有している。そして、アニメには後発だったユニバーサルにもイルミネーション・エンターテインメントがあり、2010年より毎年1作のペースで作品を発表している。

第1弾の「怪盗グルーの月泥棒」が大成功して一躍ユニバーサルにもアニメがあると知らしめた。特に「怪盗グルー〜」の中に登場する『ミニオン』はあっという間に知れ渡った感があり、そのキャラクターは「踊る大捜査線」ともコラボを果たしてしまった。2作目は実写との合成アニメ「イースター・ラビットのキャンディ工場」で、その手堅い面白さはスタジオの信用度を更に高めたと言えよう。

待望の第3作目となるのが「ロラックスおじさんの秘密の種」という邦題の作品だ。原題は「Dr. Seuss' The Lorax」。この『Dr. Seusstドクター・スース』という児童文学者は日本ではあまり馴染みがないが(海外の絵本ファンは知っているのかも?)、映画化になっているものが意外とあり「ぞうのホートン」「グリンチ」、未公開となってしまったがビデオになっている「ハッとしてキャット」(マイク・マイヤーズダコタ・ファニング出演、原題「The Cat in the Hat」)、ハリウッド映画のファミリー狙いの企画にはもってこいの作家のようだ。

環境が悪化してしまった世界が舞台となっている物語で、すべてプラスチックで出来た街スニードヴィルで暮らしている少年テッドが、ガールフレンドのオードリーが本物の木が欲しいと言ったことをきっかけに、何とか失われた本物の木を甦らせる、たった一つの魔法の種を手に入れようとするストーリー。作品が発するメッセージは『環境破壊の危機』であり、自然の木を大切にしようである。

見てビックリである。忌憚のない言い方をさせてもらえば、これほどお説教臭いアニメは初めてである。違う言い方をすればメッセージの発信が余りにもストレートで困ってしまった。木を切ってしまうと新鮮な空気は無くなって(故に空気の販売で大儲けをした男がこの街の権力者)、人間が本来生活する環境ではなくなるというもの。ロラックスおじさんは、その木の精のような存在で、彼がいなくなると自然が完全に破壊されたことになる。それがストーリーそのままに描かれるだけで、なんの含みの要素もない。

宮崎駿監督の「もののけ姫」が公開された時、これは子供には難しいでしょ、と言われたが5歳児の反応は『森を無くしてはいけないんだよね』というものだった。そう、見事に作品が持つメッセージは伝わったのだった。作品が物語の奥に秘める形をとったメッセージでも、伝え方の手法次第でちゃんと伝わるのに、この映画は何の芸もなく、ただ話で伝えようとしたのだった。それってどうなのだろう、あまりにも観客を信用していないのではないだろうか?

絵本の物語がそのような話であるなら、映画化としては同じ展開も仕方がない。しかし、映画としての面白さは発揮されず、普通に見てたら『どうして、この映画って話になんのヒネりもないの?』となってしまうのだった。英語版の声優にザック・エフロンテイラー・スウィフトを起用し、ミュージカル仕立てにして楽しませようとする前に、メッセージの伝え方そのものに疑問を持たなかったのだろうか?

でも、全米2億ドル突破している作品に何を言っても、というところでしょうか?

「ボーン・レガシー」を作った意味はどこにある?

リュック・ベッソンという製作者(監督ではなく)を侮ってはいけない。まさかアクション映画なんかやるはずがないだろうというイメージの役者を、見事に出演させヒットさせてしまう。そう「96時間」のリアム・ニーソンのことだが、続いて白羽の矢を立てたのがガイ・ピアース。まだ予告編とメインビジュアルだけだが、「ロックアウト」は、明らかに今まで彼のイメージではなく、SFアクション映画のヒーローの様ではないか!次に狙われるのはザック・エフロンあたりか?

このようにハリウッドの俳優たちは、固定されたイメージを嫌って、大胆に役柄のイメージチェンジを図るケースがよくある。ここ10年での好例はマット・デイモン。「グッド・ウィル・ハンティング」で見たときは、爽やかな青春映画俳優だったが、その彼が「ボーン・アイデンティティー」で見事にアクション俳優に変換を遂げた時には、驚きながらも“それでいいじゃん!”という感想だった。それから後の「ボーン・シリーズ」の大ヒットの連発は記憶に新しい。

「〜アルティメイタム」の出演でシリーズを終えたマット・デイモンが、もうジェイソン・ボーンを演じないとなっても、ユニバーサルは、そのドル箱シリーズを手放したくなかったのだろう。同じように組織に作られ、裏切られた別のスパイ、アーロン・クロスの物語を生み出した。それが「ボーン・レガシー」だ。ジェイソン・ボーンの大暴れの裏で進行していたスパイ養成と、そのプロジェクト消滅に巻き込まれる一人のスパイのアクション映画だ。

主演はジェレミー・レナー。「ハート・ロッカー」で、突然出てきた感のある俳優だが、ベン・アフレック監督作品「ザ・タウン」で見事な演技を見せ、実力を示した。「アベンジャーズ」でのホークアイ役は個人的には不満だったので、この「〜レガシー」のアクション演技には大満足である。しかし、この映画が「ボーン・シリーズ」である意味は、結果的に見出すことが出来ず、その名を名のる必要性は感じられない。単に組織に裏切られて危機を迎えるアーロン・クロスというスパイの逃亡劇ではないか。

「〜アルティメイタム」にも出演しているジョアン・アレンアルバート・フィニー、そしてデヴィッド・ストラザーンらの顔も拝むものの、そのボーンとの関係性を抜きにすれば、これは見ていて飽きないアクション映画になっている。ラストの組織が送り込んできた暗殺者との、バイクでのチェイスシーンは見事な迫力で、ちゃんと人の手が掛かっている、デジタル処理に頼っていないアクションとなっている。

そして、何と言っても見所はスッキリと引き締まったレイチェル・ワイズだ。最近の彼女の印象はどちらかと言えばふっくらだった(昨年見たのは「アレクサンドリア」)が、私生活でのダニエル・クレイグ(マッチョな007ですからね!)の影響からか、この映画では見違えるほどシェイプされていて、そのタンクトップ姿は美しい。よってラストの闘う女子と化してのアクションも、まったく違和感がないのだ。彼女が最初は単に暗殺者に怯える存在だったのに、徐々に度胸が付いてくる様は、この映画の売りとなっているぞ!ダーレン・アロノフスキーと別れて良かったねぇ。

まぁ「ボーン・シリーズ」の生みの親の一人トニー・ギルロイが全権把握していれば、これぐらい出来て当然か。でも本音を言えば(皆そうでしょ!)ジェイソン・ボーンの第4作目が早く見たいんだよなぁ。

「夢売るふたり」って、もっとスリリングであるべきだ!

蛇イチゴ」「ゆれる」「ディア・ドクター」と順調にキャリアを積み重ねて来た西川美和監督の新作だ。「蛇」は宮迫博之、「ゆれる」はオダギリジョー、「ディア〜」は笑福亭鶴瓶と男優主演の映画を手がけてきたが、今回は主役は松たか子(W主演で阿部サダヲ)だ。実は、この監督とは相性はあまり良くなく、「蛇」は面白かったが、その他の作品は世間でいうほど、面白くは感じていない。

「夢売る〜」も同様だった。脚本の完成度は高いことは分かる。しかし圧倒的なカタルシスのある物語の構成ではなく、脚本のテクニックが図抜けてるためか、演出の意外性は感じないのだ。特に今回の詐欺師夫婦の物語なら、もっとスリルが必要だろう。そこを確信犯的に外しているなら、それはいささか的外れ。この映画の内容だったら、スリリングな展開が求められてしかるべきだ。

冒頭、夫婦がやっている居酒屋が火事になる件から違和感があった。これだけ繁盛している店で、夫婦二人だけは無いでしょう。繁盛していることにするなら、そこに接客店員が居ないことが明らかにおかしい設定だ。よって火事となっても当然で、同情の余地はない。ここで映画は躓いているのだ。同情の余地がなければ感情移入も全く出来ず、二人の詐欺行為が醜悪にしか見えないのだ。

特に女子重量挙げ選手とのエピソードは、どっちの登場人物たち側で見ても辛すぎる。さらに詐欺行為のエピソードが有りすぎで、いったいどれが映画の本筋で捉えるべきかが不鮮明だ。詐欺のコンピレーションになってしまっている。極論を言えば最後の木村多江演じる主婦との『日常まで入り込んだ、この男の結末はいかに、奥さんどうすんの?』のスリルだけで充分なのだ。

松たか子の例のシーンも、これだけっ?って言うレベルの期待ハズレ。内容としては日活ロマンポルノ的要素も孕んでいる話なのだから、この場面はもっとじっくり撮るべきだ。そうした比較で見てしまうから、むしろ役者的には鈴木砂羽の方が際立ってしまう。演技レベルではなく、物語の中で主役を持ち上げられていないのだ。要するに観客は“こんな美人の奥さんがいて、この亭主なにやってんだよ”の感情が先に立ってしまうのだ。やはり監督自身が男を描きたいのか?である。

笑福亭鶴瓶の存在感はさすがで、偽医者よりずっと様になっていると言うしかない。よって、ここでも阿部サダヲが負けてしまい、肝心の逮捕されてからのフェイドアウト感が甚だしい。鶴瓶さんが悪いわけではなく、ここにビッグネームの存在感ある俳優は不必要ではないか。

最初の詐欺行為で、何人もの女性を騙しても『悪く言われない男』の描写があった時点で、もしかするとこれは『詐欺版「トリュフォーの恋愛日記」』(浮気を繰り返しても悪く言われない男の話)になるのか?と思ったが、その路線ではなかった。その雰囲気を阿部サダヲという役者には感じるので、路線がそれだったらダメ亭主が主役のシニカルコメディになっただろうに。

そう、これはコメディなのか、サスペンスなのか、ドラマなのかという支柱が見当たらない。それぞれの要素があるため、勿体ないから全部盛ってみたら、味がバラけてしまった丼になってしまっているのだ。それは、求められるレベルが高いから陥ったことなので、いわゆる『惜しい映画』になってしまっているのである。

「最強のふたり」は“最強の映画”か?

大ヒットのフランス映画である。週を追うごとに、いわゆる『デート・ムービー』となり、普段フランス映画なんて見たこともない若者にまで、客層が広がっていると聞く。その若者たちの感想が“チョー良かったぁ!”だ。おそらく、いつもは洋画だったら、ハリウッドの超大作の日本語吹き替え版か、邦画だったら大手TV局が作るイベント映画しか見たことが無い客層だろう。

なんでハリウッドではなく、フランスなんだと思ったが、どうやら彼らは単に外国映画としか見ておらず、『皆が見てる、わかり易く感動できる作品』だから見とかなきゃ、であるらしい。よってフランス映画初体験の意識すらないようだ。また、ハリウッドでのリメイクも決定したというニュースを聞くと、この物語は絶好のアメリカ映画向きだなぁと思わざるを得ない。ハリウッド版のキャストのイメージはジャイモン・フンスーダスティン・ホフマン(二人とも歳だけど)になるかねぇ。

しかし、長年映画を見て来た世代で、更にヨーロッパ映画全般を見てきた人の感想の大半が“フランス映画って、これでいいの?、こんなハリウッド映画みたいなの作ってどうすんの?”になっているから不思議だ。そう、この映画に作家性を見出すことが出来ない=フランス映画らしくないという構図になってしまっているのである。逆に言うとだからヒットしたのであるが…。要するに一言で言い表すことが難しいのがフランス映画だったのに、この映画はそれが言えるのだ。

『車椅子の生活の大富豪と、その介護のアルバイトに来た黒人青年との愛と友情の物語』である。

つまらないと言っているのではない。フランス映画がかつて誇っていた品質がこの映画には無く、アメリカ映画的な面白さだと言っているのだ。冒頭の警察を揶揄うエピソードから、フラシュバックしての二人の出会いになり、時間軸が現在に戻る手法は余りにも芸がない。アース・ウインド&ファイアーの楽曲使用は世代的には新鮮に映るが、これまたアメリカ映画のMTV的だ。その楽曲に合わせ踊る黒人青年のカッコよさは、皮肉なことに現在のハリウッド映画の、白人スター不在を確認することになってしまった。

すると、日本に限らず全世界的に『映画に対する読解力』が落ちているということか?本年度のアカデミー賞作品賞をかっさらったフランス映画「アーティスト」にしても『いつか何処かで見たようなメロドラマ』で、それがハリウッドへのリスペクトと言うのが、どうしてもレベルの低さを感じてしまうのだ。もし「最強のふたり」が(フランスの代表作品とのこと)来年のオスカーで最優秀外国映画賞をとってしまったら、かなりの末期症状だぞ。

映画そのものの興行的成功は本当に素晴らしいことだ。パッケージソフトの発売日なんか関係なく(ちょうど「おくりびと」のように)大ロングラン興行になって欲しい。そしてハリウッド・リメイク版もヒットを期待するが、それらが『最強』ではないということも知って欲しいのである。

もし本物の『孤独な魂が寄り添う映画』を見たいと思うのなら、「真夜中のカーボーイ」または「スケアクロウ」を見るべきだ!

「天地明察」で感じる、映画はやはりキャスティングだ!

滝田洋二郎監督がようやく「おくりびと」に続く作品を発表した。それが「天地明察」。原作は『本屋大賞』で有名であるが、物語の主人公である安井算哲(という名は予告編で憶えてしまった!)が実在の人物か、原作者の冲方丁氏の創作であるかは、あえて知らないで(スイマセン、無知です!)見た。映画は時としてその方が楽しめるのだ!事実、江戸時代の個人的に非常に興味ある頃が舞台と分かった冒頭から“グっと入り込んで”しまったのだった。

史実に沿った話だと分かったのが、松本幸四郎の役が、テロップで『保科正之』と出た瞬間だった。池波正太郎氏の小説で幡随院長兵衛の生涯を描いた「侠客」の後半に登場する江戸幕府の危機を救った名君だ。江戸の大火事で焼け出された人々のため、幕府が抱える米を放出し飢えを防ぎ、その後の江戸の町の整備を行ない、歴史に名を残したと池波さんが教えてくれている。

天地明察」の原作では安井算哲に『北極出地』を命ずるのは、別な会津藩の老中となっているが、それを映画版では保科正之よりの命としている。この変更は成功で、その保科正之松本幸四郎に演じてもらうことで、映画に重みが加わったのだ。映画の骨子は算哲が改暦の大仕事をやってのけ、人間的に大成してゆくというもので、こうした主人公成長の物語で重要なのは、その主人公を取り巻くキャラクターのキャスティングだ。

よく映画は監督が脚本からイメージするところのキャスティングが出来たなら、8割がた出来たも同然と言われる。まさに「天地明察」は、その成功例というべき神経の行き届いたキャスティングなのである。算哲に岡田准一、その妻に宮粼あおい、算哲を助ける数学者に市川猿之助(というか市川亀治郎)、前半の『北極出地』に同行する上役の二人には、岸部一徳笹野高史、改暦を阻止する公家に市川染五郎保科正之亡き後に算哲を支える水戸光圀中井貴一と見事な布陣であった。

他に佐藤隆太徳井優武藤敬司白井晃染谷将太、同じ事務所の横山裕らの出演だが、侮れないのが横山君だ。彼が演じる囲碁の大家、本因坊道策は実に魅力的だ。道策ももちろん実在の人物で、囲碁棋士の間では知らない者はいないというほどの有名人だという。映画は時として(世界史でもそうだが)こうした今まで知り得なかった歴史の裏側と実在の人物を教えてくれるから止められない。

失敗や妨害で挫折しそうな算哲を、そうした脇のキャラクターが見守り、支えて行く物語こそ映画の王道である。特に宮粼あおい扮する妻えんが算哲を叱咤する場面の、宮崎のドスの効いた声が美しく、“おぉ、この声は名作大河ドラマ篤姫」の天璋院の声ではないか!”と聴き惚れてしまった。またインテリ歌舞伎俳優としてクイズ番組にも出ている(亀治郎ではなく)猿之助は、食えない数学者関孝和役のイメージ、ドンピシャだ!

滝田洋二郎監督の堂々たる正攻法の演出は少しもブレることはなく、映画を見終えた充実感で満たされる。見事に「おくりびと」の次の作品というプレッシャーに打ち勝ちましたね。興行的には観客に若いファンがいないと言われているようだが、やはり時代劇というハードルがあるのだろうか?しかし岡田准一は現代劇よりずっと良い。若い層にも見て欲しいねぇ、見なきゃ損ですよ。

これで本当に岡田准一が、再来年のNHK大河ドラマで演じる黒田官兵衛が楽しみになってきた!

閉館前の浅草中映で洋画2本立て

シネコンで映画を見慣れている若者たちは、浅草で映画を見たことがおそらく無いであろう。かつては映画興行のメッカとして知られた浅草六区の映画館も、この10月21日(日)をもって全て閉館と相成った。まぁ、自分が高校生の頃から(37年前か?)すでに興行的に活況を程しているとは言い難く、いささか入り込むのに『恐怖』を感じるほど寂れた状態であった。

高校生時代に浅草に入り込んだ要因も、たまたまタダ券が手に入っただけのことだが、それでも、電気館だったか(館名はすべて定かでない)で、若き日のチャーチルを描いた「戦争と冒険」(封切はテアトル東京だったが見逃していた)、東映系の封切り(多分)で「県警対組織暴力」、泉谷しげるという役者にビックリした「野獣刑事(デカ)」などの一般作から、オークラ映画(いわゆるピンクです、高校生で見てました!)までと楽しみ、社会人になってからの正月でも、会社をさぼって「トラック野郎」の第何作目かを見たりした。

洋画の2本立て興行の浅草中映で、見逃していた「タイタンの逆襲」と「コナン・ザ・バーバリアン」という絶好の番組をやっていたので、別れを惜しみつつ駆けつける。肩の力を抜いて楽しめる洋画のアクション作と、浅草という土地の絶妙なバランスだ。こうした一軒家の映画館は減る一方だなぁと、外観も目に焼き付けたのは言うまでもない。そして入り口で“本当に来週でお終いなの?”と問いかける常連さん多数の場面を確認し場内へ。もちろん観客に女子は一人も居なかった。

映写そのものは問題なく、建物の老朽化という部分を除けば、閉館するような感じはまったくしなかった。むしろシネコンの興行でよく見る観客片手未満より入っていたではないか!もちろんデジタル上映ではなく、ちゃんと映写機が回っていて、久しぶりに客席側から映写機を繁繁と眺めてしまった。もちろん「タイタン〜」も「コナン」も当然ながら2D版だった。

レイ・ハリーハウゼン版の「タイタンの戦い」には続編はない。要するにリメイク版の「戦い」の無理やりの続編で、相変わらず仲の悪い神様同士の喧嘩に半分人間、半分神様のペルセウス(万能の神ゼウスの息子)が巻き込まれて大騒ぎというお話。これでもかというばかりの特撮映像の羅列をニコニコして見ていたら、キャストに意識がいかなくなってしまっているのに気がついた。

それがゼウス役のリアム・ニーソンとハデス役のレイフ・ファインズの共演。そう、二人で力を合わせて戦っているが、二人は「シンドラーのリスト」で対敵した関係じゃないか!なんか時の流れを感じ、感慨深いものがあるぞ。特にリアムは最近、マスター(王様、将軍などなど)系の役ばっかりで、いささか食傷気味。だから「96時間」が新鮮(「2」も期待!)に映ったのかな?

もう1本の「コナン〜」は、かのアーノルド・シュワルツェネッガー作品で有名となった「コナン」シリーズのリブート(リメイクではなく、『再起動』というそうな)作品。ミレニウム・ピクチャー製作、日本での配給は日活と、前作の権利が現在20世紀フォックスにあるのに、まったく絡まないという不思議な展開となっている。まぁ、シュワルツェネッガーのイメージが強いので、その部分さえ意識しなかったら、このアクションは楽しめますよ。

ご贔屓の俳優のひとりロン・パールマンがコナンの父親である“未開人族(これをバーバリアン族という)”の長の役で出ている。こういうキャスティングに喜ぶのが映画ファンの特権だ。その父を魔術を使い世界征服を目論む王様に殺され、成長したコナンがその復讐を果たすという単純明快なストーリー。悪役で台詞もなく、大きな体を使ったアクションを披露し、コナンと闘う役者の顔、どっかで見たことあるなぁと思ったら、なんと、あのボブ・サップでした。まだ俳優やれてるんだ!!

実はよく見れば、この手の単純な中世モノ風肉体系アクション映画が少なくなっているのだ。だから、この「コナン」には全世界的に成功して欲しかったが、残念ながらそうは問屋が卸してくれなかったなぁ…。

とにかく、浅草中映でこの2本立ては、映画館(こやと読む!)と作品が見事にマッチして、忘れられない映画になりました!浅草中映さん、どうも有難うございました!

「プロメテウス」に戸惑う原因とは?

「エイリアン」と「ブレードランナー」という傑作を作ってしまった故、リドリー・スコットはいつまでも、その2作を代表作とされてしまう。よって全く映画を知らなければ、SF映画系の監督だと思われがちだ。ところがフィルモグラフィーを眺めてみれば分かるとおり、多彩なジャンルの映画を作ったいることが分かる。ビジュアルが(アクションシーンは特に)優先するため、やはりアクション映画の監督とカテゴライズされてしまうが「プロヴァンスの贈り物」みたいな作品も作っている。

個人的なお気に入りは(そのSF作品を除く)デビュー作「デュエリスト/決闘者」、気風のいい女の決定版「テルマ&ルイーズ」、オスカーを挙げたかった「グラディエーター」、小品だけど粋な「マッチスティック・メン」、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」と同じ様に、戦場に放り込まれた感覚を味わった「ブラックホークダウン」といったところか。

そのリドリーが久しぶりにSF作品を作ったということで大きな話題を提供したのが、「プロメテウス」で先に公開されたアメリカの批評も良かったと聞いた。しかし、本編を見て“あれっ、これで良いの?むしろダメじゃない?”と思ったのが正直な感想。公開後に聞こえて来た声も“微妙〜っ”が多かった。では、何故ゆえにこのSF大作に対し戸惑いを覚えるのだろうか。

ひとつは、こちら側が明らかに「エイリアン」に継るものとしての期待感が大きかったことも挙げられるだろうが、その期待感は『人類の起源』とか言う大層なものではなく、モンスターはどうして生まれたかの、実はもっと単純なもので良いものだった。それをファーストシーンから大仰な白塗りの(あれはどう見ても、前衛舞踏劇団員でしょ)人間を登場させ、神様めいた振る舞いをさせたから『何コレ?』となった。

更に、これで良いのかと不思議に思ってしまうのは、プロメテウス号の乗組員の面々。シャーリーズ・セロンはアクション出来る女優なのに、結局何もせず、美しいお顔だけ拝ませてくれた以外は、ただそこにいるだけ。宇宙に送り込まれた精鋭部隊の筈なのに、とっている行動にすべて説得性がない。最初に洞窟で死ぬ二人の行動は、ほとんどヤクザ映画の鉄砲玉にしか見えませんよ。なんぼ、監督がビジュアル重視と言っても、この人物造形の部分での脚本の不備はなんとも言い難い。往年のハリウッドだったら、決して有り得ないぞ!

ギーガー発案のデザイン画が余りにも強烈な印象を残したため、何とかそこから話を膨らまして前日譚として成立させようとした、強引さばかりが残る結果になったのは誠に残念。結果、その前日譚としての宣伝も出来ないまま公開され、若い観客から『何か「エイリアン」のパクリみたいな映画だった』と言う感想があったと聞く。これはまったく不幸な映画の典型的な例となってしまった。

今回は最後の誕生シーンを撮るなら、そこに至るモンスターの秘密と起源の方が、人類より重要だったでしょ。そして『彼らは何故、産まれたのか?』を宣伝文句にするべきだったと思う。そうすれば作品内容もある程度分かってもらえて『パクリ』などと言われないで済んだのではなかろうか。

そう、全世界を相手にするハリウッドに課せられた使命とは、期待された作品を、期待した観客に対し、期待どうりの内容(もしくはそれ以上)で見せることだ。ちょうど「エイリアン2」であっと驚かせたジェームズ・キャメロンのように…。