「プロメテウス」に戸惑う原因とは?

「エイリアン」と「ブレードランナー」という傑作を作ってしまった故、リドリー・スコットはいつまでも、その2作を代表作とされてしまう。よって全く映画を知らなければ、SF映画系の監督だと思われがちだ。ところがフィルモグラフィーを眺めてみれば分かるとおり、多彩なジャンルの映画を作ったいることが分かる。ビジュアルが(アクションシーンは特に)優先するため、やはりアクション映画の監督とカテゴライズされてしまうが「プロヴァンスの贈り物」みたいな作品も作っている。

個人的なお気に入りは(そのSF作品を除く)デビュー作「デュエリスト/決闘者」、気風のいい女の決定版「テルマ&ルイーズ」、オスカーを挙げたかった「グラディエーター」、小品だけど粋な「マッチスティック・メン」、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」と同じ様に、戦場に放り込まれた感覚を味わった「ブラックホークダウン」といったところか。

そのリドリーが久しぶりにSF作品を作ったということで大きな話題を提供したのが、「プロメテウス」で先に公開されたアメリカの批評も良かったと聞いた。しかし、本編を見て“あれっ、これで良いの?むしろダメじゃない?”と思ったのが正直な感想。公開後に聞こえて来た声も“微妙〜っ”が多かった。では、何故ゆえにこのSF大作に対し戸惑いを覚えるのだろうか。

ひとつは、こちら側が明らかに「エイリアン」に継るものとしての期待感が大きかったことも挙げられるだろうが、その期待感は『人類の起源』とか言う大層なものではなく、モンスターはどうして生まれたかの、実はもっと単純なもので良いものだった。それをファーストシーンから大仰な白塗りの(あれはどう見ても、前衛舞踏劇団員でしょ)人間を登場させ、神様めいた振る舞いをさせたから『何コレ?』となった。

更に、これで良いのかと不思議に思ってしまうのは、プロメテウス号の乗組員の面々。シャーリーズ・セロンはアクション出来る女優なのに、結局何もせず、美しいお顔だけ拝ませてくれた以外は、ただそこにいるだけ。宇宙に送り込まれた精鋭部隊の筈なのに、とっている行動にすべて説得性がない。最初に洞窟で死ぬ二人の行動は、ほとんどヤクザ映画の鉄砲玉にしか見えませんよ。なんぼ、監督がビジュアル重視と言っても、この人物造形の部分での脚本の不備はなんとも言い難い。往年のハリウッドだったら、決して有り得ないぞ!

ギーガー発案のデザイン画が余りにも強烈な印象を残したため、何とかそこから話を膨らまして前日譚として成立させようとした、強引さばかりが残る結果になったのは誠に残念。結果、その前日譚としての宣伝も出来ないまま公開され、若い観客から『何か「エイリアン」のパクリみたいな映画だった』と言う感想があったと聞く。これはまったく不幸な映画の典型的な例となってしまった。

今回は最後の誕生シーンを撮るなら、そこに至るモンスターの秘密と起源の方が、人類より重要だったでしょ。そして『彼らは何故、産まれたのか?』を宣伝文句にするべきだったと思う。そうすれば作品内容もある程度分かってもらえて『パクリ』などと言われないで済んだのではなかろうか。

そう、全世界を相手にするハリウッドに課せられた使命とは、期待された作品を、期待した観客に対し、期待どうりの内容(もしくはそれ以上)で見せることだ。ちょうど「エイリアン2」であっと驚かせたジェームズ・キャメロンのように…。