「スノー・ホワイト」の新解釈は、是か非か?

「白雪姫」の物語はグリム童話のひとつというより、ディズニー映画の代表作という印象が強い。ディズニー長編カラーアニメ第1弾として1937年に公開されて以来、会社の至宝として大切にされてきたのだから、当然であろう。ディズニー映画は今でこそ頻繁には行なっていないが、これほどのビデオ時代になる以前は、重要な長編アニメは5、6年に1度のサイクルで、定期的にリバイバル公開を行なってきた(正確に5年後に再び「白雪姫」が見られるとは断言できなかったが)。

そうして映画館で見てもらいたいとの方針から、「白雪姫」はビデオカセット全盛時代となっても、長い間発売されることはなかった。そうなると欲しがる人の間で出回るのが、いわゆる『海賊版』。ちょうど1980年代後半に、テアトル新宿をメイン館にリバイバル公開があった時、スクリーンで見ていたら、なんと画面サイズがビスタでだった。1937年にビスタなんてある訳がない。天地にマスキングしての上映だ。

よく見ると、7人の小人と白雪姫のダンスの場面で、白雪姫の足がかなり欠けて映っていたので、どうにもおかしいと思い、確認のため家にあった『海賊版』を再生してみたことがあった。スイマセン、持ってました、それも画質がかなり良いもので(あのBetaはもうありません)。そして、そのビデオのスタンダードサイズにはちゃんと足は映っていましたよ。こういった上映は困ってしまう例ですな。

そんな大好きな「白雪姫」のイメージで「スノー・ホワイト」は見るべきじゃないと分かっていたものの、実際に見てしまった後は、これって「白雪姫」っていうより「ジャンヌ・ダルク」でしょ。後半の海辺を馬で進撃してくる場面って「ロビン・フッド」だよなぁ、とやっぱり思ってしまった。また継母と魔女と一緒にしてしまっているので、継母は「シンデレラ」でしょ、とツッコミたくもなる。そして「白雪姫」らしさを少しも感じない原因は、製作者側の意識が魔女に寄りすぎているからという結論になる。

そう、この映画の見どころは魔女の存在。彼女が何故、魔女になってまでして、女王にならなければならなかったのか、その反骨心を産んだ過去とは?とかのバックグラウンドが描かれ、単に美を競い合っただけのディズニーの「白雪姫」とは大きく異なっている。要するに魔女を絶対悪として描かず、不幸な生い立ちの可哀想な女性として描いているので、ここを是か非かで、評価は分かれることになるだろう。また、シャーリーズ・セロンをそんなに老け顔にする必要はないでしょ!悪は美しい!だけで充分だったのに…。

実は、この映画のもうひとつの評価の分れ目は、誰でも感じるスタジオジブリの影響だろう。オマージュではない、インスパイア・ザ・ムービーとも言い難い。『おそろしの森』(それは、違う映画だろ!)の中で朝を迎え、妖精(この造形もなんだかなぁ)に導かれた先は、の場面は「もののけ姫」ですよねぇ。また魔女が傷つきながら城に戻ってきた時の、カラスの羽の描写は「ハウルの動く城」そのものではないですか!“いやぁ〜、やっぱりジブリの影響は、ここにもかぁ”とは思えず、逆に“そんな芸のないことで本当にいいの?”と感じてしまうのであった。

結局のところ、ここにも現在のハリウッドが抱える大きな問題である、企画力の脆弱さが見て取れるのだ。グリム童話=ファンタジーで、闘う女性を描くと共感されやすく、中世ものからの名場面をいただき、ジブリというブランドで、ディズニー色を消す。などなど、マーケティング戦略で結果が出ているものをゴチャゴチャにコラージュしただけという背景が見えるのだ。

ハリウッドにご都合主義は付きものだが、王子様ではなく、狩人のほうのキス(そっちかよ!)で毒リンゴから甦ったスノーホワイトが、突然『魔女を倒す!戦いあるのみ!』と強くなって皆を戦いに誘う様は、さっきまで『おそろしの森』に怯え、か弱かったのは、何だったの?と思わざるを得ない。そりゃ、どう考えても脚本が荒っぽ過ぎるでしょ、まったく伏線もなく、戦うから立ち上がれって言われても、困るんですけどねぇ。

と、言いながら「白雪姫」とは別物と考えた上での『闘うプリンセス』の姿は嫌いじゃないのです。そりゃ、「パニック・ルーム」の時からず〜っと“この娘はイケるぞ!”で応援してきた、クリステン・スチュワートの勇姿なんだから当然だ!小さな役だったけど「イントゥ・ザ・ワイルド」のヒッピー娘なんかも良かったし、「トワイライト」シリーズに染まりきることなく「ランナウェイズ」でジョーン・ジェット(そっくり!)役にもチャレンジと、インディーズとメジャーの両方での活躍は見事の一言だ!

「スノー・ホワイト2」が出来るってニュースが、公開前に出回ったけど、魔女を倒してしまっておいて、どうするのでしょうか?