“映画愛”に溢れた受賞式でしたが…

朝から放送する『生』ではなく、夜の字幕版で久しぶりにアカデミー賞の受賞式をちゃんと見た。年々、授賞式に対してのこだわりというか、思い入れが薄れてきてしまっているのが本当のところ。生放送を見ることは無理だが、どうせ授賞式を見るのだったら、結果を知らないで見たいものだ。しかし、これだけの情報社会ともなると、授賞式の放送を見るまで受賞結果を知らないでおきたいという、いわゆる情報の遮断などは不可能というもの。

ネットやツイッターなどというもので、次々と嫌でも情報が送られてきて、まるで見た気になってしまうのである。また、仮に生放送で見たとしても、あの不自然な同時通訳が気になってしまい、単に映像での結果の確認になってしまうのだ。そもそも、オスカーの授賞式が生放送で楽しめるような時代になるとは思いもよらなかった。こうしてWOWOWが独占放送し始める前は(20年以上前だな)、授賞式からだいぶ経った頃の深夜に、フジTVが90分ぐらいのダイジェスト版をひっそりと放送する程度だった。嗚呼、あの時録画した授賞式は素晴らしかった!そのベータマックスは、どっか行ってしまった。

あの時代、情報の到着はゆったりしたもので、どのスターがどんな衣装を着ていたかなんかは、翌日のスポーツ新聞の芸能面のほんの少しの写真か、翌月発売される『スクリーン』か『ロードショー』のグラビアページで確認出来る程度だった。受賞発表翌日のスポーツ新聞を全部(意外やデイリーがちゃんとしていた記憶あり)駅の売店で買ってチェックしていたのも、この頃。それだけ放送自体を見ることが出来なかった時に、運良くアメリカ在住の友達が出来て、何本か録画して送ってもらっていた。

WOWOWが放送開始以降、アカデミー賞に対する注目度と認知度は驚くほど広がり、各方面でトトカルチョも含め、予想合戦とあいなった。キネマ旬報誌上でも毎年予想座談会が掲載され、当たり外れに一喜一憂している。自分自身の予想で言えば、今年は惨敗であった。フランス映画「アーティスト」に対し、『ハリウッド村』が、そのプライドを持ってすれば、賞は挙げないだろうと思ったのだが(「アーティスト」について書くときに詳しく)。

と、結果が分かっていながら、授賞式を楽しんだ。メリル・ストリープがあんなに素直に喜ぶとは思わなかった。度重なるノミネートの末の受賞は、やはり違うものがあるのだろう。彼女のスピーチで語られた37年間の俳優生活と、そこに関わった人たちへの感謝の想いの言葉の中に、今は無きジョン・カザールを感じた瞬間(あくまで個人的解釈だが)、こちらも感動の涙が出てしまった。ジョンが脳腫瘍に侵されるながらも「ディア・ハンター」の撮影を終えられたのも、当時婚約者だったメリルのお陰で、ジョンは封切を待たずに亡くなったという、有名なエピソードを思い出してしまったのだった。

助演女優賞オクタヴィア・スペンサーのパニックぶりは微笑ましく、感動的。助演男優賞クリストファー・プラマーは、これでようやくトラップ大佐の呪縛から逃れられたというところか。主演男優賞がジョージ・クルーニーじゃなかったことが、今のアメリカ映画が、いかにプライドを失ってしまったかを物語っている。お気に入りの女優エマ・ストーンがプレゼンターで大騒ぎして、ベン・スティラーとかみ合っていなかったのが可笑しかった。

ヒューゴの不思議な発明」も「アーティスト」も“映画愛”の塊ということで、今回の授賞式の演出のコンセプトは『フィルムが回っている、映画館へ行こう』と、思い出の中の『初めて行った映画はなんですか?』だった。皮肉なことに、そのフィルムにこだわって倒産してしまったコダックの、その名前が付いているコダック・シアターで(毎年であるが)授賞式を行うなんて。いささか老いたビリー・クリスタル(降板したエディ・マーフィの緊急の代役)の、愛をこめた“ここは倒産シアターだ!”のギャクにも苦笑するだけだ。

結局今年も、メジャー・スタジオの不振ぶりを確認した授賞式だった。この状態は何時までも続くのだろうか?もうメジャー・スタジオは、お決まり企画での金儲けだけで、名誉は要らないのだろうか?ここ最近の受賞の結果を見る度に、そう思ってしまうのだった。とは言え、今年の式自体は、一人のプレゼンターで1部門は、時間を食いすぎるということで、一人で複数部門を発表するスタイルでテンポ良く進行して、コンパクトにまとまった印象だ。今後はこのスタイルで行くのだろうか?