君は「幕末太陽傳」を面白がれるか?

キネマ旬報社発行の『映画検定』用テキスト本の“見ておかなけれならない100本”の邦画部門で、ちゃんと選出されている川島雄三監督の「幕末太陽傳」が、日活100周年を記念したデジタル修復版で上映となった。記憶を辿れば、これが3回目の鑑賞となるのだが、今まで本音を言えば、“つまらなくはないが、すごく面白くもない”が正直な感想だった。記憶に残っているのは遊郭の中を走りまくっているフランキー堺の姿と、若々しい石原裕次郎の侍姿だけだった。

それが、今回見てみて本当に驚いた。身震いするほどの面白さ、極上の喜劇映画ではないか!今までどこをどう見ていたのか?何で面白がれなかったのか?よくよく考えれば、自分の鑑賞眼がようやく映画本編に追いつけたとしか言いようがない。それだけ、この映画は革新的な面白さに満ち、人間が生きることへの執念を見事に笑いに包んで見せ、重くない味わいとするテクニックのため、実は厄介な作品だったのだと思い知った。

1957年7月の公開作品。自分が生まれた年の映画だが、10月生まれなので公開時はまだ母親の腹の中だ。確かに「ローマの休日」でも「七人の侍」でも、他に多くの『自分が生まれる前の映画』がある。しかし、この映画に限っては(意味も無く)、生まれた年にこんな凄い映画があったんだ!という感慨を、今回強く感じ、なぜかもの凄く自分にとって大事な映画になってしまった。この先はブルーレイディスクで何度でも観るだろう。

ファーストシーンが現在(昭和32年)の品川を映し出していたことすら忘れていた。遊郭の相模屋が実際にあったからか、まずはそこからお話に入っていく。正に落語のマクラだ。そこから幕末の相模屋へ画面が変わると、もうそこは“居残り佐平次”の世界なのだ。しかし、ここからがこの映画の厄介なところ。この映画の面白さを言葉で伝えるのが異様に難しいのだ。一言で物語を言い表せないのである。『金を持たず、遊郭で豪遊した佐平次は、その遊郭に居残り、いつの間にか店にはなくてはならない存在になっていくのである』って書いて、面白さ伝わりますか?無理でしょ。

遊郭内での売れっ子NO1を競い合っている二人の個性的な遊女、そのうちの一人の遊女と客の心中騒ぎ。遊女になりたくなく、店の放蕩三昧の若旦那と一緒になって、駆け落ちしようとする下働きの娘。その相模屋に逗留している長州藩の面々と、彼らが起こそうとしている事件(実際のもの)。これらのエピソードが澱みなく語られ、登場人物が生き生きと動き回る。そう、実はこれ佐平次が居残った何日間かだけの物語で、そこで起こった事を描いているだけなのだ。だから誰かに伝えにくいのだ。

しかし、川本三郎さんのエッセイのタイトルではないが“映画を見ればわかること”で、『品川心中』をネタにした、遊女と客の心中騒ぎの可笑しさったらない!爆笑ものだ。また下女と若旦那を船に乗せて駆け落ちさせる場面での、佐平次の『粋』にタメ息がでるばかりだ。そういう佐平次は胸を病んでいて、そう先は長くなさそうだが、それでも“生きてやるんでぇ”とばかりの啖呵が物悲しくもある。

このラストに向こうへ行く佐平次の姿は、まさに「モダンタイムス」のラストシーンの、放浪紳士チャーリーが向こうに歩いていくカットであり、チャップリンそのものではないか!明日も絶対頑張って生きてやる、という意思を背中で表しているのだ。この映画にまつわる別なラストシーン云々は、確かに見てみたいが、これはこれで納得のエンディングだろう。

まだまだ、映画を読み取る力のなさを感じた「幕末太陽傳」の衝撃でした。