直訳すると「散弾銃を持った放浪者」でいいかな?

ロバート・アルドリッチの「北国の帝王」を見るまで、世界大恐慌時代の汽車のタダ乗りをする放浪者を“ホーボー”と呼ぶなんて知らなかった。タダ乗り男のリー・マーヴィンと、それを阻止する鬼車掌アーネスト・ボーグナインの壮絶な対決に、見事に男を感じさせる映画でしたね。その「北国〜」のお陰で、こんな邦題を考える事を諦めた映画のカタカナタイトルにでもピンとくることが出来るのである。感謝!

更に主演のルトガー・ハウアーと言う名前に頷くような映画ファン(そう、80年代ですね)であれば、尚更この「ホーボー・ウィズ・ショットガン」に興味が湧くだろう。未だに「ブレードランナー」のレプリカントとばかり言われるのは、本人的には嫌かもしれないが、そのお陰で彼の名前は、Bテイストのアイコンのような存在になってしまったのだから仕方ないでしょう。まぁ、この映画自体のお話はそんなにヒネってはいません。ホーボーが街に列車でやって来て(列車のタダ乗りと思わせる描写はここだけ)、暴力と腐敗にまみれた街の、その独裁者に対して戦いを挑んでいくというもの。

そもそも、映画の成り立ちはロバート・ロドリゲスの「マチェーテ」と同じで、グラインドハウスのフェイク予告編から、本編へ昇格したものだ。よって、この二本のプロットもそう変化はない、ここを許さないと、この映画はダメでしょう。『たった一人で悪に立ち向かう』というアクション映画の普遍的なパターンは「ダイ・ハード」でも「ホーボー〜」でも変わらず、それがBテイストであればあるほど、そのプロットに頼らざるを得ないのだ。

そして、もっと突っ込んで考えれば、この『たった一人〜』というプロットは何が基本となって生まれたか?ということになる。実は、それこそがアメリカ映画伝統の西部劇なのだ。そう、このバイオレンスアクション映画を細かく読み解くと、実は西部劇のスタンダードなパターンが、しっかりと踏襲されているのが分かるのだ。例えばホーボー自身こそ、西部開拓の時代で言えば流れ者のガンマンだろう。これぞ名作「シェーン」ではないか!

さらに、流れ着いた街は一人の実力者に牛耳られて、その実力者にはダメ息子がいるというパターンは、「荒野の決闘」「リオ・ブラボー」「大いなる西部」と数々の西部劇が描いてきた。これはアメリカの家庭の父親こそが、権力の象徴だったことの現れである。そして、その街には気の良い娼婦がいる。これはサム・ペキンパー砂漠の流れ者」のステラ・スティーヴンス。街の人に裏切られるように、一人で闘わなくてはならなくなる、これこそゲーリー・クーパーの「真昼の決闘」そのものだ!

グルになっている警察と、権力者が雇った(これまたいわゆる用心棒というやつですね)殺し屋に、痛めつけられながらも頑張るホーボーの姿に、最後には街の人たちも立ち上がる、ここは分かりやすく、西部劇以外の例で言うと(皆、大好き!)「ストリート・オブ・ファイアー」でしょう。ただ「ストリート〜」自体が西部劇ということをお忘れなく、である。

要するに、どれほどのトンガリ残酷アクションのBテイストの映画を作ろうと、根っこのところには、いつも映画史がしっかりと息づいているのが分かるから、アメリカ映画はやめられないのである。