山田洋次監督作品群と自分の映画史をすこしだけ…

正月に西武線の車内広告を見て知った、池袋西武の別館西武ギャラリー(ここにたどり着くのは容易じゃない!)で開催された「山田洋次監督50周年記念展」に行ってみた。展示は4つに分けられ、①被災地に立つ②撮影所が夢の工場であった時代③劇場(コヤ)が笑いであふれていた④人間のあり方と家族の絆を見つめて、となっていた。

①の昨年の8月に陸前高田市にある“黄色いハンカチ”を、監督が訪ねて行く数々の写真に感動し、②の大船撮影所のジオラマに目を見張り、柴又駅前にある寅さんの銅像の原型に驚き、失われていくフィルムに対して、『これからも撮影はフィルムでする』というコメントに安堵したりと、前半の部分は見ごたえ充分であったが、後半息切れして「男はつらいよ」全48作の紹介(1枚のパネル写真のみ)にスペースを割いて終わりとなっている。

もっと監督生活50年にフォーカスして、貴重な写真の展示、1作品ごとにコメントがあったり、松竹の先輩後輩の監督たちが紹介されたりしていて欲しかった。要するに監督生活の50年と、日本映画界の50年がリンクしていたら、もっと興味深かったのにというのが感想だ。この展示会用に横尾忠則氏デザインの記念ポスター、売って欲しかった。山田監督編集の「寅さんあなたは誰なの?」(時間の関係で見られませんでした)の特別上映に300円の入場料を取るより、このポスターを1500円で売った方が売上が多かったのでは?

実は1970年(この時13歳か)から、東宝映画で育ったので、松竹映画はそれほど真剣に見てこなかった。東宝作品に客演した「その人は女教師」の岩下志麻に魅せられ、志麻さんの作品だけは見に行っていた記憶がある。それほど当時歌舞伎町にあったコマ東宝(もう無い)と、新宿松竹(現新宿ピカデリーの地下にあった)の距離は遠かったのだ。それでも72年(だったと思う)に『寅さん祭り』行き、1作目を堪能したのだった。

『寅さん祭り』は、おそらく通常の公開作品が当たらず、打ち切りとなっての、いわゆる『穴埋め上映』だったろうが場内満員で、一番前に座ってスクリーンを見上げていた。すると押入れに隠れていた寅さんが見つかる爆笑の場面で、自分の笑いからほんの一瞬遅れて、館内の笑い声が後ろから降りかかってくるではないか!映画以上に感動した瞬間だった。多分、この時に実感した『映画は絶対多くの観客と映画館で見るのが一番!』がいまだに取り付いているのだろう。

その時は、「男はつらいよ」が面白い映画であることと、山田洋次という監督は認識したが、意識してシリーズをずっと見には至らなかった(72年「ゴッドファーザー」以降、洋画に寄った部分もある)。山田監督が、すっごい監督だと初めて意識したのが、親が京マチ子さんが見たいというので連れていった、76年の「寅次郎純情詩集」。ファーストシーンだったろうか、美しい風景の中を走る2両編成(だったと記憶する)の電車が映る、何気ない1場面に“この監督の映画は安くないぞ!”と変な感激をしてしまったのであった。

映画に必要なワンカットなら、1時間に1本走るかどうかの電車を撮影しに、現地まで行ってしまう(その後、「男は〜」にはいっぱい電車が映ることは分かったが)その意気込みのようなものを、ようやく作品から感じ取れる年齢になっていたのだろう。突然「男はつらいよ」より、山田洋次監督のほうが自分の意識の中で先に出るようになったのだった。そして翌77年に「幸福の黄色いハンカチ」に出会うのであった。

展示会のパネルにもあったが、山田監督は「男はつらいよ」ばかり作っていた(最大6年間)訳ではなく、定期的に以外の作品も発表していた。「〜ハンカチ」もそうした1本で、ここに映画監督山田洋次が自分の中で、絶対的な存在になった。すると今度はどうなったか?この「〜ハンカチ」以降、「男はつらいよ」以外の山田監督作品は全部見て、寅さんに対する興味は減退したしまったのだ。「遥かなる山の呼び声」「キネマの天地」「ダウンタウン・ヒーローズ」の3本だけだが、何本か見ている「男はつらいよ」作品より、ちゃんと見た感が強いのである。

ところが89年「ぼくの叔父さん」で満男の青春を描き始め、寅さんの失恋以外の、もうひとつの物語に魅せられからは、逆に「男はつらいよ」シリーズが絶対優先となり、いささか説教臭かった「学校」シリーズ(Ⅲ、Ⅳは見ていない)などは敬遠するようになってしまうという、行ったり来たりの山田洋次映画に対する接し方となる。

そう、山田監督が50年なら、こちらは真剣に映画見始めてから40年(以上かな?)となるんだなぁ、と自分の映画遍歴に重ね合わせてしまったのでした。