「いちご白書」をもう一度、をしてみたが…

ごく普通に映画を見ていた者からしたら、最近の70年代映画に対しての、その有り難ぶり方が、いささかこそばゆく感じてしまう。ロバート・アルトマンの「バード・シット」や「ナッシュビル」、テレンス・マリックの「天国の日々」など、好評開催中の『午前十時の映画祭』のラインナップに加えるには、マニアックであり、コアファン向けの映画の数々だ。それらを、いかにも伝説の映画的に語る風潮に“そんな、たいそうに語られても困るよ、普通の映画だよ”と思ってしまうのだ。

そんな中、映画好きの若者ですら忘れてしまって、その映画の事を歌にした、その楽曲の方が残ってしまった「いちご白書」が『語りつぎたい映画シリーズ Vol1』という企画でリバイバル(これも死語だなぁ)上映されることになった。そう、映画そのものより、ばんばひろふみが歌った「いちご白書をもう一度」のほうが有名になってしまっているのが現実ですからね。まぁ、昔一度ビデオカセットで発売しただけで、DVD化になっていないということが、語り継げない原因のひとつかもしれない。

実は、旧池袋文芸座で見ていたはずなのに、忘れてしまっていたぐらい、それほど思い入れはない。記憶を呼び起こし、アントニオーニの「砂丘」と2本立てで見たことをなんとか思い出した。いわゆる学生運動映画特集だったのですかね、いま考えれば…。その時の印象を思い返せば、この映画は歌われている世代の人に対してのみ『引っかかる青春映画』であって、その世代以外は、ふ〜ん、そうなんだというだけで、時代は超越出来ない類の作品だなぁ、だった。よくこの映画を評して『青春のバイブル映画』って言うけど、その時に青春だった人限定って感じなのだ。

よって、あまり積極的に、もう一回見たいと思う映画ではなかったが、70年代を熱く語るK夫妻に(特に旦那は、語り継ぎたい情熱家)『見ようぜ!』と誘われ、よし、それなら「いちご白書」をもう一回とあいなった。はたして再見してみて、この映画に対して、記憶の中にあったものと印象が変わったかと問われれば、まったく変わっていなかったと言わざるを得ない。そう、今回もやっぱり学生運動を描いた『学生映画』としか映らなかった。思い入れだけで技術がついていってないのだ。

監督のスチュアート・ハグマンは、いわばリドリー・スコットの先輩格に当たる、TVCMの出身のいわゆる映像作家。ヌーべル・ヴァーグの影響丸出しのキャメラをぶん回し、ちょいとばかり自然光を取り入れた綺麗な画面に「サークル・ゲーム」や「平和を我等に」被せ、今で言うMTVスタイルで作り上げている。しかし、いかんせんキチンとしたフレームとカット割りの正統的ハリウッド映画が基本だと思っている側からすれば、この画面は稚拙だ。他のニューシネマ(これをニューシネマって呼んでいいの?)作品と比べても技量がなさすぎる。これを瑞々しい画面と言うのは大きな間違いである。

そんな綺麗な画面の前半で、ちゃんとした人物像を描いいていないから、登場人物たちがこちらの感情に入ってこない(こちらがオヤジだからではないでしょう)のである。よってラストの立て篭りに対する、強制撤去の場面も長ったらしいだけで、“悲しい場面では、涙ぐんでた”にはなりはしなかった。

ニューシネマというカテゴリーに括って、その時代の映画を過大評価する傾向にあるのが、どうにも気に入らない。その意味で言えば、この「いちご白書」は最も過大評価されていると勝手に思うのだった。