「東京オアシス」を面白がれる人は、どんな人だろう。

クリント・イーストウッドの数々の作品、または「ゴースト・ライター」で見事な手腕を見せたロマン・ポランスキーに惚れ込んでしまう理由は、キチンとした構成の上に立った『物語』を映像で語って見せてくれるからである。その姿勢で作られた映画たちをこよなく愛する者にとっては、「東京オアシス」ほど退屈な映画はない。それは作品コンセプトが、こちらが映画に求めるものと決定的に違うのだから、当然だろう。

よって、どんな人達がこの映画を面白がれるのだろうか?それが不思議でならないのだ。ファーストシーン、延々と映し出される、高速を走る車内からの眺め。なんとなくソフィア・コッポラをやりたいという雰囲気は理解出来るが、その長回しに戸惑いの方が大きい。次のカットはコンビニ内をうろつく加瀬亮を、ひたすらワンカットで追うカメラ。基本カメラに映し出される映像は、すべて意味のあるものだと思っているが、これは映画の文法上有り得ないカットで、意味不明だ。

普通、登場人物を後ろからカメラが追いかければ、それは誰か後ろにいる人間の見た目のカットのはずだ。大半の映画はそうした文法に則って作られていて、それぞれのカットがお話を進める上で意味を持つ。例外的にその文法に当てはまらない『映像体感』の嵐のような作品が登場することもある。今年で言えばテレンス・マリック監督の「ツリー・オブ・ライフ」がそれで、その物語を超越した部分に位置するカメラは驚愕である。まあ、これはまた別な話となってしまうのでこれ以上はナシにしよう。

しかし「東京オアシス」のその後のカット(長回し)の数々は、少しも物語を語ろうとはせず、いつものパラダイス・カフェ映画御用達俳優たちの佇まいを映し出すだけである。これほど場面が変わらないと、人間はどうなるか?そう睡魔に襲われるのですね。それと同じ症状に陥る映画はアンドレイ・タルコフスキーの監督作品って、そこと比べられるのは逆に凄いか。

女優陣はともかく、加瀬亮光石研も好きな役者なのに、どうしてパラダイス・カフェ(この前までは『荻上系』と勝手に呼んでいたのだが)製作の映画に出ると、こうも『毒っけ』を抜かれてしまうのだろう。「アウトレイジ」のインテリヤクザ役を楽しそうに演じていた加瀬君のほうが好きだから、余計に勿体なく感じてしまうのだ。光石さんは今回出番はすくないが、あの役は光石さんでなくてもいいでしょ。作品の出来はともかく「nude」で演じたプロダクションの社長役なんか、光石さんじゃなきゃダメなのだから、そちらの選択肢優先でいきませんか。

この系統の出発点となった映画「かもめ食堂」を見逃しているので、そのルーツを語ることは出来ないが、少なくとも荻上直子監督は「バーバー吉野」では、ちゃんとしたお話を示していたが、これはパラダイス・カフェ映画ではない。多分、こちらも戸惑うようになったのは、松本佳奈という新人監督の「マザー・ウォーター」からだろう。世に言う『癒やし系映画』として独壇場であるパラダイス・カフェ作品の監督を手がけるが(キャリアが今一分らない)、結局は荻上映画の継承に過ぎず、今回の映画を見た正直な感想は、『もうこの手はキツイ』なのだ。

今回は、小林聡美が、東京のそれぞれの場所で、加瀬亮原田知世黒木華と出会い、話してお仕舞いというだけの映画で、市川実日子、もたいさん、光石さんはお付き合い程度。上映時間も83分なのに、全くカット割らないから(意図したワンシーンとは思えない)体感の時間はそれ以上に長く感じるのだ。最後の大貫妙子の声に丸め込まれてしまいそうになるが、映画の根幹もないのに、これで癒しやオシャレとどうして言えるのだろうか?

それでも、この映画のターゲットとなる20代後半以上の女子から『見たい』という声を聞くし、そのターゲットの年齢層のお客さんは来ていたので、需要はあると判断されてしまうだろう。よって、まだまだパラダイス・カフェに限らず、この手の映画が作られそうで怖い。それっぽい映画は来年1月に公開となる、アスミック・エース製作の「しあわせのパン」だ。女性の監督、矢野顕子の主題歌、原田知世光石研も出ている。ね、かなり臭ってくるでしょ。主演男優は大泉洋。なんとあの洋ちゃんまで『毒っけ』を抜かれてしまうのだろうか?大いに心配である。