大好きなギャンブル映画、あれやこれや

タワーリング・インフェルノ」を見て、W主演のスティーブ・マックィーンポール・ニューマンのどっちに惚れ込んだかと言えば、消防隊長オハラハンを演じたマックィーンのほうだった。そのせいか二人のキャリアに、共にある『ギャンブル映画』もポール・ニューマンの「ハスラー」より、マックィーンの「シンシナティ・キッド」のほうが好きだった。でも久方ぶりに(劇場は初めてなのだ!)「ハスラー」を『午前十時の映画祭』で見て、その緊張感のある画面に見蕩れまくってしまった。

ハスラー」はビリヤード(厳密にはプール、ビリヤードはポケットのない台で行う赤白球のこと)、「シンシナティ・キッド」はポーカー・ゲームと別な種類だが、賭け事(自力で行う)ということは同じなので『ギャンブル映画』にカテゴライズされる。

賭け事と映画は相性が良く(そのドラマ性を考えたら当たり前だ)、多くの『ギャンブル映画』が作られている。近年では「ラスベガスをぶっつぶせ」のようにITでギャンブルに勝とうとする作品まで出てきた。また今をときめくマット・デイモンも「ラウンダーズ」で、若きギャンブラーの役をやっていたりと、役者にとってもギャンブルにのめり込む人間像は惹かれるものがあるのだろう。ジェームズ・カーンが(「ゴッドファーザー」のソニー役以上に)素晴らしい「熱い賭け」を、マーティン・スコセッシがリメイクしようとしているのも、監督にとっても、題材として賭け事が魅力的に映るのだろう。

そう、そのスコセッシはこの「ハスラー」の続編(って言いたくない人、結構いると思いますが)「ハスラー2」も監督してましたね。みんな、あの勝負師エディが、こんな形で帰って来るとは思わなかったでしょ。その上、ポール・ニューマンに待望のオスカーを挙げてしまったという不思議な映画。誰が見ても、この最初の「ハスラー」で受賞すべきでしょ、遅いって!

そもそもギャンブル映画の傾向は二つに分けられると、勝手に思っている。名作「スティング」、知る人ぞ知る「テキサスの五人の仲間」(パッケージ化してくれ!)のように主人公がギャンブルによって相手をギャフンと言わせる痛快作のものか、主人公自身がギャンブルに溺れ、勝っても負けても多くのものを失い、後味の悪い結末のものか、の二つだろう。「ハスラー」の主人公エディ・フェルソンも宿敵ミネソタ・ファッツに勝つために(最後に勝つのに)最も大切なものを失ってしまう。

一方の「シンシナティ・キッド」はエドワード・G・ロビンソン(名演!)の“ザ・マン”(大物という意味)にラストで負けるが、恋人に(チューズディ・ウェルド)『一緒に故郷に帰ろう』と優しい言葉をかけてもらい、二人で去っていくという救われるエンディング。だから救われない「ハスラー」より救われる「シンシナティ〜」の方が好きだった。ところがこのエンディング、現在では見られないらしいのだ。

今は無き池袋地球座(という伝説の名画座、池袋サンシャイン通りにあった)で見たこのラストで、大好きになった「シンシナティ〜」が、その後『日曜洋画劇場』で放送されて見ていると、最後にキッドが負けて“ガ〜ン”となるところで、スパッと映画が終わっているではないか!その時はTVなので、時間の関係でラストを切ったと思い、なんだよ『日曜洋画劇場』とずっと思っていた。ソフトの時代になり「シンシナティ〜」のLDが発売されたので確認して見た、えっTVと一緒だ!DVDがワーナーから出たので再度確認してみる。これもラストシーンは負けた直後で終わっている。それ以来、ラストシーンが二つあって、自分がスクリーンで見たほうがレアものだったと思うようにしているが、今もって謎のままである。

それはさておき「ハスラー」だ。ケニヨン・ホプキンスのジャズ・サウンドに痺れる、しかし画面の邪魔はしない。台詞のあるシーンはホントに役者の芝居だけでまったく静かな画面、それが異常な緊張感のある画面を産んでいる。白黒シネスコの画面と、プール・ゲームの時の構図のカッコよさ。生きの良いポール・ニューマンミネソタ・ファッツ演ずるジャッキー・グリースンの対照的なキャラクター。胡散臭いジョージ・C・スコットの魅力。そして儚げなパイパー・ローリー(サラ)の崩れた美しさ。

実はサラのような女性は、ギャンブラーにとっては邪魔な存在。しかしエディをギャンブルの地獄から救えるのもサラだけだったのかもしれない、アルコールがなかったら…。そう「ハスラー」はギャンブルと共に『アル中映画』でもあったのだ。その悲惨2大要素を完璧に描いた映画だからこそ、後味は最悪であるが、身震いするほど素晴らしい!となるのだ。

だから余計に、その同じキャラクターで、トム・クルーズ相手に最後に“アイム・バック!”って言われても違和感が先に立ってしまのですよ。