映画と音楽の関係性について考えさせられる

プライドと偏見」「つぐない」などを監督したジョー・ライトが、およそ縁のないアクションを主題にした作品を送り出した。エリック・バナ主演、ケイト・ブランシェット共演の「ハンナ」だ。CIAという組織を裏切った(いわゆる知りすぎた男)人間の復讐劇だが、自分の娘を“殺し屋”として育て上げててしまった父と、殺し屋として成長した娘と二人して、襲って来る組織に対抗するというサスペンス・アクション。

この映画の様々な違和感の中では、何で組織に対抗するのに、自分の娘を“殺し屋”に仕立てなければならないのか?また、何でわざわざ、ロードムービーよろしく捕まるまで娘は、ダラダラ旅をしなくてはならないのか?男とCIAのケイトとの関係が意味不明と色々あるが、最大の違和感はアクション映画にまったく似合わない音楽だった。音楽を担当したのはイギリスのテクノグループ『ケミカル・ブラザース』。

そもそも映画音楽とはどういった存在であるべきか?

サントラ大好きのファンには申し訳ないが、個人的な見解で言わせてもられば、映画音楽は映画をより面白くするスパイスであり、それ自体が画面を越えて目立ってはならないと思っている。それはメインテーマでも主題歌でも一緒である。理想系は「ゴッドファーザー」と言ったら解りやすいかな。

ところが、いわゆるタランティーノ以降の世代が、音楽に映像を付け始め、『カッコイイ場面でしょ』と来たからこちらの困惑が大きくなる。まだ、80年代のMTV的な(「フラッシュダンス」「トップガン」etcですね)映画の方が“この場面には、この音楽が似合うんだ!”という意識があり、メインはあくまで映像であったと確信する。

それが、この「ハンナ」の前半部分ように、孤独な殺人マシーンとなった少女といった設定のユニークさ優先で、音楽もユニークに、の発想から、まったく画面を生かそうとしない音楽が付くことになってしまうのだ。問題は後半の逃亡と追跡のアクション場面(まったく普通のアクション映画ですよ!)で、まったく場面を生かそうとしない不思議な電子音がなっていたところだ。キアヌ・リーブス「スピード」のように派手にしろとは言わないが、こうしたキャメラが動くアクションシーンほど、弦楽器系いわゆるストリングスなサウンドがハリウッド映画の王道な映画音楽だろう。その方が盛り上がり必至だ。

まあ、個人的な趣味嗜好での、『こんな場面には、こんな音楽』は人それぞれなんだから、テクノグループが映画音楽やろうと別に構わないなのだが、厄介なのは、そうした有名どころの音楽家がサントラを手がけると、“今度の映画は〇〇が音楽だから、ファンは見に来ますよね”と勘違いする関係者が多いことだ。そのファンの人たちってサウンドが好きなのであって、映画が好きではないのよ!

同じような例としては「トロン:レガシー」がある。音楽担当はエレクトロニック・ミュージック界の大物ダフト・パンクであったが、映画興行もパッケージ発売も期待はずれに終わっている。しかしサントラは売れているという状態。これはサントラではなく、アーティスト・アルバムというだけのこと。

で、結局それらの電子サウンドの音楽は、映画を印象的に出来たか?口ずさめる旋律で音楽から映画の場面を思い起こせせる事が出来たか?完全にNOである。例えば主題歌だったら「明日に向って撃て!」のあの自転車の場面のように、メインテーマだったら「ライトスタッフ」(あえてジョン・ウィリアムズ系は触れません)の宇宙服に身を包んだ彼らが歩いてくる場面のように、そのサウンドで場面を甦らせることが出来る関係性こそ、映画と音楽だと思うのだが…。

どうにも音楽側から映画を語られるのが苦手なもんでねぇ。