ハリー・ポッター、10年間お疲れ様でした!

ハリー・ポッターと死の秘宝PART2」をもって、10年間に及ぶシリーズが終わりを迎えた。「賢者の石」「秘密の部屋」「アズカバンの囚人」「炎のゴブレット」「不死鳥の騎士団」「謎のプリンス」、そして「死の秘宝」の1と2で、全7部、8作品であった。よく、映画史を10年体位で語ることがあるが(例えば80年代は、能天気なMTV映画の10年間)、まさに2001年からの10年間は「ハリー・ポッター」の10年間と言い切ることが出来るだろう。

また、このシリーズの特筆すべき点は、すべてのキャラクターを同一の役者が、終わりまで演じきったことだ。日本が誇る「男はつらいよ」は、「ハリー」以上のロングシリーズではあるが、一話完結の話と、おいちゃんの役の変更があったので別格ではあるが例外とし、それ以外は「007」シリーズしか匹敵するものはないが、結局ボンド役も変わっていくのである。もうひとつの同一役者によるシリーズ作「ロッキー」でも、だいぶ期間が空いた「ファイナル」を加えても全6作なのだ。

「ハリー」もダンブルドア校長役だけ、リチャード・ハリスの急死で、マイケル・ガンボン(これが違和感がなかったのでビックリ!)に変更となったが、生きておれば続けていたであろう。これはいかに、この映画が、イギリスの映画、演劇陣の自慢だったかの表れと言えるだろう。イギリスものはイギリス人で固めるという信条は「ナニー・マクフィー」シリーズにも表れている、いわばイギリス人の意地ですな。

また、体育学的に言うところの第二次成長期を跨いだ期間のシリーズなんて、いままでだったら論外だったろう。なぜなら子供はすぐ大きくなってしまうため、どこかで役者の変更を余儀なくされるのだから。それを逆手にとって、若き三人の俳優の、肉体的成長を作品ごとに確認しながら、シリーズを見せてしまったのである。男性ファンは回を追うごとにハーマイオニーがどんどんイイ女になっていくのに見蕩れた筈だ。こんな不謹慎なシリーズは、今後ありえないだろう。

では肝心の最終章PART2はいかがだったか?それはもう大団円を迎えるには、これしかないだろうという展開に終始して、“無事の完走、お疲れ様でした”という印象が強く、最後だから絶賛という訳にはいかなかった。それより、いかに前作「PART1」が面白かったが、よりはっきりしたのだ。最後のひとつ前が一番面白い、『スターウォーズの法則』(もちろんオリジナル・トリロジー)どおりだった。

それまでのシリーズは結局、ホグワーツ魔法学校の中でしか話が進んでいなかったのだ。それが本当に学校の外に出ると、こんなにも面白くなるのかと思ったのが「PART1」だった。いわゆるゲッタウェイムービーとなっている。逃亡劇であるためロードムービー的ではないところが、テンポを産み、その過程の中でロンが悩み苦しみ、ハーマイオニーが菩薩となり、愛すべきドビーも死んでしまうという劇的な展開で「PART2」に期待を持たせたところで終わってしまっては、ずるいなぁと思いつつ『面白いじゃないか!!』となってしまったのだ。

ほぼ3人の逃亡劇に終始したため、シンプルで面白かった「PART1」に対して、「PART2」はそうもいかず、今まで登場したキャラクターの総出演の展開。大蛇から、ドラゴン、トロルまで、忘れかけていた奴らまで登場だ。予告編にもあったハリーとヴォルデモートが一緒に崖から落ちるカットは、まさにシャーロック・ホームズとモリアーティ教授の、格闘の末の滝壺へ落下するシーンへのオマージュだろう。これもまたイギリスらしいではないか!『その後』のエピソードが必要だったのかどうか、無くてもいいのでは、と思ってしまったが伝統を重んじるイギリスなら、それもありか?

このシリーズ最大の特徴は何か?このシリーズはキャラクターと俳優のものであるという点。何年か後の『映画検定』の(下手したら1級だぞ!)問題で、“「ハリー・ポッター」シリーズ全作の監督をフルネームで書きなさい”なんて出るかもしれないぞ!それぐらいに監督重視のシリーズではなかったのである。1作目あたりは、子供の魔法使いの話なら、クリス・コロンバス監督はありだなぁとは思ったが、それ以降はどうでもよくなってしまった。

まぁ、個人的には新作が出来上がり、見る度に“あれ、前作ってどんなだっけ?”とすっかり忘れている自分がいたものだ。でも結構そうした観客はいる筈だ。そうでなければ新作公開時に前作のソフトがあれだけ売れるはずがない!そうした興行でもパッケージソフトでも、稼ぎ頭が終わってしまったことは、ワーナーブラザースのとっては痛手だろう。早急に「ハリー」シリーズに変わるヒットものを生み出す必要がある。頑張れワーナーブラザース

ともあれ、「ハリー・ポッター」10年間お疲れ様でした!!