短編小説の映画化は意外と難しい!

よく、映画が先か?原作が先か?という論争になったりする。要するに映画を観る前に原作小説を読む派か、原作を読みたくても我慢して、映画を見た後に読む派か、である。中学生の時に新宿プラザ劇場で見た「ゴッドファーザー」が本当に面白く“映画って凄い!”と思ったものの、あの分厚い早川書房のハードカバーの原作を読む年齢ではなかった。

時が経ち、二十歳ぐらいの時に神田の古本屋で、かなり傷んだ「ゴッドファーザー」の原作を(安かったから)買い読んでみた。これが映画以上に面白い。しかし映画の方がダメに見えることはなく、逆に益々光り輝いてくるのだった。これは「ジャッカルの日」にも同様なことが言えたりした。こうして、映画を先に見る派になったのである。

しかし映画化されるとは思ってもみなかった作品は、先に読んでしまったこともある。代表的な例は「羊たちの沈黙」だった。長時間飛行機に乗ることがあり、空港で文庫本を買って一気に読んでしまった。「ブラックサンデー」のトマス・ハリスという作家の名前を知っていたので、買ってしまったのだった。ジョディ・フォスターアンソニー・ホプキンスで映画が出来たのはその後だった。

なぜ、こんなことを書くかというと、藤沢周平の短編「小川の辺」を、先に原作を読み、後から映画を見てしまったからだ。今では以前のように映画化決定を知っても、読む機会があれば先に原作に触れてもいいと思っているので、「小川の辺」も先に読んだわけである。問題は後からの映画体験ではなく、先に読んだが故に感じた、短編小説の映画化が以外と難しいものだということである。

小川の辺」は、短編の一字一句も漏らさず映像化した完璧な映画化だった。短編のため、エピソードをひとつも落とすことなく、見事なまでの原作通りとなっている。しかし映画として見た場合、活字の上っ面だけすくった印象が強いのである。だが、もしかして原作を先に読まなかったら、こうした印象は受けなかったかもしれないと思い悩んでしまったのである。

脱藩侍の佐久間を追いかけ、藩命により斬らねばならなくなった侍、朔之助。佐久間の剣を上回ることが出来るは朔之助しかいなかったのだ。しかしその佐久間には自分の妹、田鶴が嫁いでいたという運命の皮肉。更に、その妹も兄と同様に幼い頃から剣術の稽古に励み、かなりの使い手になっていた。彼女は、幼い頃よりその家に仕えていた新蔵の事を好いていたが、使用人とは一緒になれない時代。新蔵の申し出により追跡に同行して、佐久間と田鶴を探す旅に出るのであった。

こうした導入部から、探す旅の風景。そして最後の斬り合いまで、藤沢周平の原作を読んだ時にイメージした通りの映像だった。ここで比べてしまったのが、同じ藤沢周平の「必死剣鳥刺し」だった。同じ作者、同じ短編からの映画化作品だ。しかし「〜鳥刺し」には映画ならでは工夫された設定があり、豊かなイマジネーションがあり、その独自性が映画として魅力だった。この違いはなんなのだ?要するに脚本の問題か?それとも映画化そのもののコンセプトの違いか?

同じ藤沢文学からの映画化で、山田洋次監督の「隠し剣鬼の爪」は、同名の短編と「雪あかり」という別な短編の合体させてあるので、最初から比べられない(「たそがれ清兵衛」「武士の一分」は未読)。「小川の辺」の篠原哲雄監督は以前にも「山桜」を撮っているが、その時は映画の上っ面感は感じなかった。でもそれは後から原作を読んだから感じなかったんだ、とい言われれば、そうかもしれない。

たぶん「小川の辺」の映画だけしか見ていなかったら、高評価しただろう。でも「〜鳥刺し」の例があるから、結局は平山秀幸篠原哲雄の技量の差としなければならなくなってしまうのだ。それでも割り切れない部分がある。最終的には、短編小説の映画化が難しいという事実だけが残るのだろうか?