映画は、いつ型になったのだろうか?

渋谷のシネマヴェーラは、日本映画の監督特集上映ばかりかと思っていたら、サイレント映画の貴重なプリントの上映もしてくれる。ちょうど時間があったので、先日ラオール・ウォルシュ監督の1926年作品「栄光」を見てみた。サイレントと言えば、チャップリンキートンとなるが、コメディばかりではない、こうしたドラマもサイレントで作られていたのだ。

物語は第一次世界大戦下のフランス。アメリカ軍人の二人がフランス娘に入れあげ、女の事で喧嘩しつつも、最後は軍人として一緒に戦場へ出ていく、という物語。1952年に20世紀フォックスジョン・フォードが、この同じ舞台劇から(この場合はリメイクとは言えないかな)「栄光何するものぞ」として映画化した。

実はこの「栄光」を見て、作品がどうとか、監督がどうとかとはではなく、このサイレントの時代ですでに映画は、ほぼ今の型になっていることに衝撃を受けたのだった。別な言い方をすれば、映画はこの時代から、少しも進歩していないのではなかろうか。もちろん、その後、音を手にし、カラーからワイド画面まで進化を遂げ、今やCGを使えば、描けないものはないというところまで来てしまった。。しかし、それは技術を導入したのであって、新しい『映画的文法』を手にしたわけではないのだ。

普段何気なく見ている画面、例えば会話のシーンの切り返しのカット。感情的な台詞の時のクローズアップ。観客に見て欲しい小道具のインサートなどなど。すべてそこにあるではないか!無いのは音声だけだ。逆にサイレントであるが故に、台詞の頼ることができないから余計に丁寧な演出ではないか!いかに今の映画が『絵(画)で物語を見せる』ことにいい加減であるかを感じてしまったほどだ。

リュミエール兄弟が最初に観客に見せた画は物語を語ってはいなかった。「列車の到着」も「工場の出入口」も『場面』だった。ジュルジュ・メリエスの「月世界旅行」は話はあるが、画面はフィックスされたままで、演出技法には程遠い(特撮技法はこれが基本ですが)。エドウィン・S・ポーターの「大列車強盗」もアップは使っているが、画面の繋ぎ方はフィックス画面の続きに過ぎない。

そうして考えると、やはり本当の“映画の誕生”はD・Wグリフィスの「国民の創生」が完成した瞬間からなのだろうか?だからこそ彼が“映画の父”と呼ばれるのだろうか?「ニッケルオデオン」という作品が、その瞬間を題材にした映画で印象的だった。ひとつの文化を完成させた時代を描いて、愛すべき作品となりましたね。久しぶりに見たくなった。

こうした普遍的な『映画的文法』を破壊して注目を集めたのが、フランスのヌーベル・ヴァーグということになるが、その破壊の先駆者的存在のゴダールがスタンダードに成り得たのかと言えば、NOである。映画は常に丁寧な画面の積み重ね(その中で見せない演出のテクニックがある!)を必要としているのだ。タランティーノ的な時間軸を操作した演出スタイルも、結局応用のアイディアなのだ。

古典的名作の数々が(国を問いませんね)いつ見ても面白く新しい発見があるのは、そこにはすでに、今と何ら変わることのない『映画の型』がしっかり存在しているからなのだろう。ダメなハリウッド映画の新作を見るより、ブルーレイで往年の名画を見たくなってしまうのは、そんなところに原因があるようだ。