不振を極めるアメリカ映画の象徴的特徴について

本当は「SUPER8スーパーエイト」(以下「〜8」)についてのみ語るつもりだった。いかに「〜8」が映画オタク二人が作ったパーソナルな作品であり、一見すると騙されてしまうが、実態は不出来でどっちつかずの映画に終わっているかを語るつもりだった。しかし「アイ・アム・ナンバー4」(以下「〜4」)を見ていたら、見事に同じ問題点を抱えていて、そこに今のアメリカ映画が陥っている負のスパイラルの類似点あったため、ここを書かずにはいられなくなった。

「〜8」の物語は『ゾンビ映画』を作ろうとする少年、少女たちの物語と、凶暴なエイリアンを宇宙に返そうとする物語の二つから成っている。そして「〜4」は異星人と人間の恋愛と、異星人同士の闘いと、これまた二つの要素から作品が構成されているのだ。ここに今のアメリカ映画の特徴を見ることが出来る。すなわち、ひとつの物語で映画を作ることが難しくなっているということだ。

なぜ、『ゾンビ映画』を作ろうとする少年、少女たちだけの話じゃいけないの?どうみたってエイリアンの件はとって付けただけの余計な話でしかない。それはスピルバーグとJJのあまりに個人的な思い出映画に終わってしまっては、さすがに誰も見ないでしょうという危機感から、それではエイリアンでも登場させ、SF超大作としてしまえという戦略をとっただけなのだ。よって、バラバラの話を無理やり一つにして、見事にバランスを失ってしまったのが「〜8」なのだ。

一方、「〜4」は恋愛とバトルという、全く異なる二つの要素を交互に描く前半が、悲惨な出来となっている。まあ、この物語の核である異星人と人間の恋愛を、ヴァンパイアと人間に置き換えて考えれば、まるごと「トワイライト」になり、なんだよ、やっぱりそれかよ!となってしまうのだから、いかに今のアメリカ映画が情けない状況であるかが分かろうというものだ。しかし、そこは剛腕D・Jカルーソ監督が後半アクションのつるべ撃ちに転じて、すべて内包することに成功して、二つの要素のバランスをなんとか保ったのだった。

「〜8」の方はインテリの映画オタクが、自分が憧れた80年代の映画の、作風そのものを模倣してみせているので、映像的には興味深く見ることはできた。すなわちシネスコサイズ内の構図、フィルムの質感、撮影の際の光の使い方、などなどすべてが『ほら、僕が撮ると80年代映画って、こうして蘇らすことが出来るんだよ、エッヘン』という自慢面を確認出来るのだ。それらの興味深い映像と、映画の構成力は別物なのだけどね。「スター・トレック」で惚れなおしたと思ったJJエイブラハムズ監督であったが、また策に溺れてしまったようだ。

そして、もう一つの2作の共通点はスター俳優不在であるということ。ここから育って欲しいと思うキャストは何人かはいるが(エル・ファニングは当然だが、「〜4」のナンバー6役の金髪美女はいいですな)、やはりどこかで、トメとなるスター俳優をキャスティングが必要なのに、それを拒否しているのも(特撮で予算使い過ぎだからでしょ)特徴なのだ。

結局のところ、アメリカ映画界は、なんか勘違いしていまいか?または自信をうしなってはいまいか?物語がひとつでは観客に飽きられるという強迫観念があるとしか思えないほど、話を詰め込むことに必死になっている。構成能力以上に盛り込んだ結果、物語は崩壊するしかないのだ。

3つの話をすんなりラストで一つにまとめてしまった「ヒアアフター」のようにはいきませんよ。あれは、イーストウッドにしか出来ない本物のプロの技なのだから、皆が真似ることは到底無理というものなのだ。