「大いなる西部」スクリーンで見られるまでに、40年待ちました!

映画の魅力に取り付かれた少年時代。もちろんビデオなんていう贅沢なものもなく、観たい映画はスクリーンで上映される機会を待つしかなかった時代である。ちょうどその頃、運の良いことに名作のリバイバルロードショーが盛んで、また名画座も多数存在していたので、ちゃんと追いかければ有名な作品は見ることが出来た。

リバイバルで見た主な映画は、テアトル東京で「戦場にかける橋」「ウエストサイド物語」、日比谷スカラ座で「サウンド・オブ・ミュージック」「アラビアのロレンス」、日比谷映画で「史上最大の作戦有楽町スバル座で「ローマの休日」「駅馬車」、丸ノ内ピカデリーで「風と共に去りぬ」「十戒」、新宿ピカデリーで「ワイルド・バンチ」「ロシュフォールの恋人たち」、新宿ロマン劇場で「俺たちに明日はない」「昼顔」、新宿武蔵野館で「シェルブールの雨傘新宿ミラノ座で「ベン・ハー」「ローマ帝国の滅亡」などなどであった。現存する劇場は有楽町スバル座新宿ミラノ座のみで、そこに映画興行の様変わりを感じるのだが、それはまた別の話。

そんな頃に、日曜洋画劇場で2週連続ノーカット放送という謳い文句で、ウィリアム・ワイラー監督の「大いなる西部」が放送されたのだった。もちろん解説は淀川長治先生。その時の熱のこもった解説は、淀川先生の解説を集めて収録したDVDで見ることが出来る。そして、その解説に導かれるようにして見た「大いなる西部」に、映画をかじり始めた少年は、夢中になったのだった。当然、放送は日本語の吹き替えであり、画面はTVサイズにトリミングされたもの。この時から「大いなる西部」をなんとかスクリーンで見ることは出来ないものか?どこかでリバイバルしてくれないものか?と思い続け、早40年という歳月が流れてしまったのだった。本当にこの映画だけは、スクリーンにかからなかったのですよ。

まぁ、その間まったく「大いなる西部」を見なかった訳じゃなかった。DVDで何度ジェローム・モロスの雄大なテーマ曲が流れる、ソール・バスデザインによるオープニングシーンを見たことか。また年末の深夜TVでやっていた時も、ジム・マッケイが荒馬サンダーを乗りこなす場面だけ見たりした。要するにTVでは本腰据えて見ることはしなかったのだ。実は映画館にも「大いなる西部」は一度かかったことがある。ヘラルドクラシック作品として大井武蔵野館での上映であった。勇んで出掛けた見たそれは、なんとTVサイズにトリミングされたプリントでの上映だったのだ!これには驚き呆れてしまった。すなわち、生まれてこのかた、一度も完全な形での上映で見ていなかった映画が「大いなる西部」なのであった。

しかし遂に『午前十時からの映画祭』の上映で、スクリーンで見ることが出来たのだ!普通の人だったらこう言うだろう。“DVDもブルーレイも発売されているんだから、それで見ればいいんじゃないの?”と。スクリーンで見ることに対するこだわりを持っていない人の言葉だ。このこだわりは、恐らくどう説明しても分らないだろう、そう、あきらめているのだ。

大好きなテーマ曲のオープニングには、本当にワクワクさせられる。馬車を引く馬を捉えるカットは、この次の作品「ベン・ハー」の戦車競争の馬の撮り方と一緒だということを発見。雄大な風景の中の駅馬車のカットは本当に西部の大地の大きさを感じさせる。そんな西部に東部の船乗りジム・マッケイ(演じるは、この映画の共同製作者でもあるグレゴリー・ペック)がやって来てから、古き西部の伝統との対立が生まれるという、それまでのハリウッド映画が作り続けてきた西部劇とは異なる内容である。そのためか、作品評価は日本ではキネマ旬報ベストワンに輝いているのとは対照的に、アメリカでは低いものである。

いわゆる、このアメリカ人には不向きな、高級な西部劇の魅力を幾つか上げでみると…

①古き良き西部魂と東部の新しい文化との対立、その男らしくあることの違い。

※西部開拓の時代、銃がすべてを支配した時代。その銃を撃てるか、また相手がいる前で争うことが出来るか、それが西部の男さしさのというものだった。そうした西部男同士の『死をかけた意地の張り合い』を体現している登場人物が、バール・アイヴス(この演技で見事オスカーに輝く!)扮するヘネシーとチャールズ・ビックフォード扮するテリル少佐。この二人の親父が“西部男”だ。ヘネシーは絶対君主の親父、故にチャック・コナーズ(一世一代の名演!)扮するドラ息子バックの反撥が悲劇も産む。

※一方、テリル少佐の娘パット(パトリシア)の婚約者のジムは、西部にやって来て初めてパットが考える男らしさの基準を知る。それは父であるヘンリーがすべて。このファザコンの娘に扮するのが金髪美女キャロル・ベイカー。ヘネシー家を目の敵にするテリルと、その争いに無意味さしか感じないジムが、うまくいく筈がない。西部側からの視点で見れば、このジムという男もいけ好かない男にも映る。

たったこれだけ作品概要を記しただけで、ジョン・ウェイン主演の西部劇と違うかは分かるでしょ。ここにはインディアンも保安官もいないのである。

②いかに牧場には『水』が必要であるか、をきちんと描写した。

※2つの家の対立の原因は、牧場にもっとも必要な『水』をめぐるもの。乾季になると全く水のなくなる二つの牧場は“ビッグ・マディ”という豊かな水源を独占しようと争っていたのだ。しかしその所有者は、パットの友人の学校教師ジュリーだった。そしてジムは、この争いを止めさせるべく、ジュリーから“ビッグ・マディ”を買取り、ジム自身が牧場経営に乗り出そうとする。これが物語の骨格だ。このジュリーに扮するのがジーン・シモンズ

③キャストが魅力的!

このジュリー役のジーン・シモンズはキャロル・ベイカーとは反対に黒髪。代々の資産である“ビッグ・マディ”をちゃんと役立てたいという思慮深さを持ち合わせ、髪の毛だけではないパットとの対比となっている。この女性人二人と親父二人の魅力的なキャラクターと、それを演じる俳優陣が本当に素晴らしい。そしてジムと直接的な対立を見せる牧童頭スティーブにチャールトン・ヘストン。彼はこの演技で次の「ベン・ハー」の主役に抜擢となったという。また「ベン・ハー」の撮影中にもかかわらず、編集段階であった「大いなる西部」の有名な殴り合いのシーンで、もうワンカット欲しかったワイラーはヘストンに今一度牧童頭の扮装をさせ、アップを撮り終えたというエピソードを以前に聞いたことがあったが、そこに完全主義者の監督ワイラーを感じるのだった。

④監督ワイラーはやはりアメリカ人ではなかった!

後半の山場である、ジムとドラ息子のバックの決闘シーンは、ヨーロッパの騎士道精神に則ったもの(父親は同じ決闘で無意味に死んだとジムは思っている)で、西部劇特有の決闘(「ヴェラクルス」のゲーリー・クーパーバート・ランカスターが一番分かりやすい)とは大きくかけ離れている。その感覚が、どうにもアメリカっぽくないなぁと思っていたら、ワイラーが生粋のアメリカ人でないことに気がついた。そうだったワイラーはヨーロッパからの移民組だったっけ。得てしてアメリカ映画の傑作は、実はアメリカ人が撮っていないものである。例えば「真夜中のカーボーイ」がアメリカン・ニューシネマの傑作であるのに、監督はジョン・シュレシンジャーというイギリス人であったように。

そのウィリアム・ワイラーこそ、世界の映画界の中でも最高のストーリー・テラーの一人である事実をきちんと確認出来る、最良の映画だろう。約2時間50分まったく澱みなく物語を語り、無駄のない意味のあるカットばかりだ。今のアメリカ映画界で、これだけの話術を有しているのは、シドニー・ルメット亡き後では、残念ながらクリント・イーストウッドしかいないのだ。

上映プリントの状態は問わない。このフィルム状態に不満な人は、発売されたばかりのブルーレイディスクを見ればいい。問題はスクリーンサイズだ。これだけの大きな映画なのに、六本木のTOHOシネマズではスクリーン①での上映だった。スクリーン⑦で見たかったなぁ!府中でもっと大きなスクリーンサイズで上映されるなら、もう一回見に行くぞ!