ゲンスブールって誰?

いつの頃からだろう、フレンチポップスを『おしゃれな』サウンドと決め付けて、崇め奉るようになってしまったのは?最初にミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」を聞いたときも(中学生の頃だな)“ふ〜ん、フランスも中々いいじゃん、言葉わからんけど”程度だった。まあ、後はダニエル・ビダルだったなぁというぐらいで、まずはフランスと言えばシャンソンだった。

よって言葉がわからんから、よけいに「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」を聞いた時も、あっはん、うっふん言ってるだけの変な音楽だなぁと思ったもんである。実はその時は(記憶が正しければ)すでに「ガラスの墓標」を見ていたので、まさかこのむさ苦しい男優が歌っているとは思いもよらなかった。

その当時のクレジットはすべて『セルジュ・ゲインズブール』だったろう。いつから『ズ』を『ス』に変えたのだろうか?まぁ、そんなことはどうでもいい。自分にとってのゲインズブールは、まずは「ガラスの墓標」のジェーン・バーキンの相手役の魅力のない男優に過ぎなかったのだ。もしかしたら、そうした見方は男だけのことで、女性陣はあの雰囲気が堪らないということになるらしい。そんな女にモテモテだった男でしたという生涯を映画化したのが「ゲンスブールと女たち」だ。

なんかこの映画、本国フランスでは評価が高いようで、セザール賞の主演男優賞、音響賞、初監督作品賞(そんな部門があるんだ!)を獲得している。しかし率直な感想を言えば、こんな男がいましたというだけの、ダラダラした描写のそっくりさん大会に過ぎないじゃないか、というものだった。まず時代がまったく描かれていない。60年代はこういった時代だったから、彼が登場し、喝采を浴びたんだといった部分がまったくない。適当に絵を書き、歌を歌い、女性と次々に寝るだけだ。

その女性たちは、ジュリエット・グレコブリジット・バルドージェーン・バーキンと出てくるが、どの女優さんも『よく似た雰囲気』をもった人達ばかりだ。実際のバルドーがそれほど好みではないので『このバルドーを演じてくれるレティシア・カスタという女優さんのほうがいいじゃん』などと楽しむしかない。ドヌーブのそっくりさんが出てきたら、どうしようと思っていたが、出てこなくてホッとした。

この映画は結局、ゲンスブールの生き急いだ生涯の、上っ面だけなぞって駆け足で語っただけの作品なのだ。だから、これでは楽しめる人はそうはいない。ジェーン・バーキンが出てきて、ジュテームになって、子供が出来てその娘の名はシャルロットって全部知っている(事実のみしか語れなかったのかもしれないが)ことだけで、内面的苦悩(そこは脚本家の解釈でもいいのに)には迫ろうとしなかった。

時代の雰囲気を描こうという意志(ファッションは、せいぜいバーキンのミニスカート程度)は、あまりなく、バーキンが“今、アラン・ドロンの映画に出てるの”という台詞だけで、それが「太陽が知っている」という映画であり、ドロンはその当時フランスで、どういった存在かなど描くべきだったと思う。

映画を見終わってから、ジェーン・バーキン役のルーシー・ゴードンという女優さんが、撮影後に首吊り自殺していたと知った。そのことが映画以上衝撃的だった。もったいないなぁ。