捻りの効いた映画と、まったく捻らない映画

劇中の登場人物が3人だけ、という謳い文句に偽りがないか、また本当にそんなんで映画が出来るのか?という疑問を解明するために、さっそく「アリス・クリードの失踪」を見てみる。確かに登場人物は、拉致されるアリスと誘拐犯の二人組という3人だけであった。場所はどこかの廃墟と化したビルの一室にベッドを持ち込んで、アリスを大の字に縛りボールギャグ(西洋版猿轡ですな)を咬まして頭から布袋で目隠しをして監禁してしまう。

物語はここから誘拐犯の男二人(中年と若者)の関係、アリスと若者の方の関係、アリス誘拐の目的は?など捻った展開となり、3人芝居にグイグイ引き込まれる。タイトルが“誘拐”ではなく、なんで“失踪”なのかがラストになってはっきりする。なるほど、そういうことで“失踪”なのね、と納得するのであった。アリス役のジェマ・アタートンの文字通り体を張った演技を堪能。これがあの「プリンス・オブ・ペルシャ」のお姫様?(まあ、この役は居ても、居なくても一緒だけど)と我が眼を疑うほどだ。

こうした捻りを効かせて魅せる映画もあれば、まったく捻りを見せなかった映画もある。それが「ロシアン・ルーレット」。オハイオ州に住む青年の家は父親が事故にあい、入院(ここはアメリカの医療事情が本当は絡むのだが)のため経済的に逼迫する。たまたま電気工事を請け負い、仕事をしていた家で、なにやら一晩で大金を得られる仕事があると聞きつけた矢先、その家の男はヤクで死んでしまう。意を決した青年はその男に成り済まして大金を得ようとする。

ここまでが舞台設定を整える展開で、さあ、この後タイトル通りロシアン・ルーレットで、この青年が金を手にすることが出来るのだろうか?となる。闇の世界の(このあたり邦画の「カイジ」の影響を感じる)、生活苦の人間の生命をかけたギャンブルと、当事者は運が良ければ200万ドル近い大金を手にすることが出来るという訳だ。金を賭ける側にはジェイソン・ステイサム、ベン・ギャザラ、ルーレットをやる人間側でミッキー・ローク、ゲームのMCにはマイケル・シャノンと結構なキャスト陣だ。

しかし、死のゲームが始まった中盤からは、そんな豪華な登場人物たちでありながら、キャラクターの掘下げをすることなく(それを拒否した感もある、ある種の潔さ)ひたすら誰が生き残るかだけの緊張のゲームが続くだけの真っ直ぐな展開。こればかりは真っ直ぐすぎて、もう少し捻れよ、と突っ込みたくなるほどだ。単に死のゲームを映画にしたかっただけか?

そしてラストに向かってが、さらに一直線!青年は運良く生き残りました、ステイサムは大損しました、故郷にダンボールをいっぱいにした金を送った青年は、ステイサムに撃たれ死にました。ステイサムは青年の持っていたバッグに、金が入っているものと勘違いしました…おしまい、である。何のためのステイサムのキャスティング?大損の逆恨みでの襲撃だったら、もう少し彼のキャラクターを描き込んでくれないとなぁ。

あざとい捻り過ぎを嫌だけど、ここまで捻らないのも『?』である。言葉を変えれば、登場人物たちの背景を何の説明(0じゃないけど)もしない結果、まるで意味が通じなくなっているのだ。そのため描写自体、一瞬は刺激的に感じるが、展開としての抑揚がないので、印象が全く薄くなってしまっているのだ。準決勝まで生き残って“俺はここから出ていく”って言っていなくなるミッキー・ロークの役もなんだったんだろう?

プロット自体は悪くないので、もっと脚本を錬れば深みが出て見ごたえが生まれただろう。そう思うから余計に惜しい作品だな。しかし、こうして2本の作品を見較べると、改めて映画って登場人物の数や、スターの名前だけで成功するわけではないのだと思うのであった。