街を撮る難しさを知る2本の映画

ソフィア・コッポラが「ロスト・イン・トランスレーション」で東京を舞台にして、TOKYOという街を撮ったことが不思議だったし、よく分からなかった。なんでTOKYO?アメリカのどこぞの街じゃ、ダメなの?と思ったのだった。確かにリドリー・スコットが大阪を撮った「ブラック・レイン」の例を挙げるまでもなく、外国人監督が撮った日本の街が魅力的に見えることもあるが、まずは自分の国の街を舞台にしてよ!が正直な感想だった。

そのソフィアが「SOMEWHERE」で、ちゃんとL.Aを撮ってくれた。映画そのものの、話はどうでもいい。売れてんだか、売れてないんだか、よく分らない俳優が主人公で、ホテルにポールダンスの出張サービスを呼んで(この双子のダンサーは魅力的だ!)楽しんだり、隣の部屋の美女に逆ナンパされたりと、よろしくやっている日々。そんな彼が自分が空っぽな男だと認識して、それをこの街のせいにして後にするまでの話。

本当にこの映画の見どころは、次々と登場する美女たちとL.Aの街(だけと言ってもいい)だ。美女に中で、最大注目は主人公の娘役のエル・ファニング。そうダコタの妹だ。ダコタも大きくなって「トワイライト」シリーズとか「ランナウェイズ」で頑張っているが、妹エルもすでにキャリア10年で、なんとデビューは「アイ・アム・サム」でダコタと二人で一役だった。エディ・マーフィの「チャーリーと14人のキッズ」で注目していた人も多いのではないかな。

ソフィアは女性監督なのに、女子選びのセンスが良いので画面を見ていて飽きないですな。そこにL.Aの街もしっかり映し出されるのだが、その見せ方が良い。あたかもそこに住んでいる人が、日常の目線で捉えている感覚が、映像になっている。うまくは言えないが、何度か行ったL.Aのその場所が画面の中にあったのだ。これってなんか出来そうで出来ない撮影だと思うよ。日常を描くための日常感覚って意外と難しいのだ。

そして日本映画にも、街が重要な役目を果たす映画が1本登場した。「プリンセス・トヨトミ」だ。奇想天外な話で楽しめる映画だが、唯一最大の不満は肝心の街の撮り方が、あまりにも平面的になってしまっていること。そもそも、大阪に行く前の新幹線から見える富士山の映像も変だ。そう、この映画の風景はみんな作った風景にしか見えないのだ。本当の街を何故リアルに、そこに人間がいる日常のように撮れないのだろうか。いや、撮らない!が正解なのかもしれないが、もし確信犯的にこうした映像で良しとしたならば、そのセンスを疑う。

せっかく大阪府の大きな協力を得られている企画なのに、もっと大阪の日常を細やかに、ダイナミックに撮影しないのだろうか。だから無人となった大阪の街を突然映されても、それ以前の日常がないから、対比しての効果がないのだ。綾瀬はるかがタコ焼きを買って食う公園にしたって、その辺の公園にしか見えないような撮り方だ。

後半の見せ場の舞台となる大阪城とあの周辺も、アレでいいのでしょうか?無人の街から、綾瀬が大阪城へ到着するまでの距離感も、もっと見せるべきでしょ。話にそれほど厚みを感じないのは(もしかしたら、この程度で良しとする物語なのかもしてないが)、画面の中の街が息づいていないからじゃないだろうか。

近年の日本映画、各地のフィルム・コミッションが発達したため、いわゆる地方都市を舞台にした映画が多い。コミッションがしっかりしている長野県上田市では、アニメ「サマー・ウォーズ」の舞台(実写でロケしたわけじゃないのに)となってしまったほどだ。しかし、その分大都会をしっかり『街』としての画になる作品が作られていない印象が強い。まぁ、渋谷、新宿、銀座に、街として魅力が失くなったこともあるが…。

たまたま、この2本の映画を立て続けに見てしまったために、いかに作品の舞台となる街を撮るのが難しいものだと感じた次第だ。アメリカ映画に出来て、日本映画に出来ていなかったから余計にそう思うのだ。