円谷英二の残したもの

先日、大阪へ出張の機会があり、新幹線での移動の間になんか読む本がないかなと思い、東京駅の駅ナカ本屋で、文藝春秋社の文庫本「円谷英二の言葉 ゴジラウルトラマンを作った男の173の金言」を買って読んでみた。

実は、円谷英二特撮映画の数々に対して、そうは思い入れはない。まぁ、一言で言うなら世代でない、というやつということになるのだが、ひとたび円谷英二という名前を世界の映画史のなかに置いて考えてみれば、これほど重要な映画人はないだろうという思いにたどり着く。そう、現代の特撮映画全盛の時代の、ずぅ〜と前から映像の特殊効果というものに目を向けていた稀有な存在だったのだ。

その本を読んでみて、まさに目からウロコの一部を書き留めておきたい。まずは、最初の言葉『特撮っていうのは、貧乏の中から生まれたんだ』。現代の映画製作の予算の多くは、おそらく特殊効果撮影予算として計上されるのではなかろうか。しかし、そもそも予算がないから(ロケに行けない)合成やらの特撮が生まれたって、今ではほとんどその意識はあるまい。

一番びっくりしたのが『新聞の写真だけで真珠湾を想像した』で、太平洋戦争中に作られた戦意高揚映画「ハワイ・マレー沖海戦」の真珠湾奇襲の場面の特殊技術撮影の祭に、ハワイの軍港の資料がないなか、新聞の一枚の写真に映っていた民家から軍艦から湾からの大きさを推測して撮影し、なんとGHQから本物の記録映画と思われ検閲に引っかかったこと(『どっから撮ったんだ、って言われた』)。なんという技術屋としての名誉なことだろう。

『できるだけ大きく作ってね』は、ミニチュアのサイズのことである。大きなスタジオでの大きミニチュアの効果を知っていたのだ。これはアメリカのパニック映画の金字塔「タワーリング・インフェルノ」でも、同じことがなされ、火災に合うビルの大きさは(炎とのバランスもあり)大きなミニチュアだったという。円谷英二のDNAはちゃんとハリウッド映画人たちにも残されていたのだった。

その円谷英二の名前をハリウッドに知らしめたのは、もちろん「ゴジラ」である。どれだけゴジラというキャラクターが認知されているかを思い知ったのは、ビリー・ワイルダー監督の1964年の作品「ねぇ!キスしてよ」の劇中の台詞に“まるでゴジラのようなワイフだな”という怖い奥さんを形容する言葉として出てくるのだ。全米公開の作品での、そんな台詞はいかにゴジラが恐いモンスターだということを、アメリカ国民が知っていた証明と言えるだろう。また円谷自身にもハリウッド映画に対するリスペクトがちゃんとあり、ことあるごとにスタッフに『キングコング」を見ろ』と言っている。

『いつかは特撮専用のスタジオを建てる』の言葉は、「ゴジラ」完成後に東宝撮影所内に円谷組専用のスタジオが出来たことで実現したが、面白いのはそのスタジオが使い勝手が良く、黒澤組とかが使ってしまい『うちのために建てたんだろう』と怒ったそうな。この特撮専用スタジオの概念は、結果ハリウッドではジョージ・ルーカスILMが一番有名の特撮工房として進化するのだ。

ユニークなエピソードとしては、黒澤組とは(黒澤組はパンフォーカスで)電気の使用量で争っていたりで円谷の“あっちが天皇ならこっちは神様だ”の一言には笑いながらも映画人のプライドを見る。そして映画全盛の時代の幸福感を実感するのだった。

とにかくこの本は、書かれている言葉の数々は特殊効果撮影の枠を超え、映画人かくあるべき!がよく分かる必読の本なのでした。