ロバート・ゼメキス、どこへいく?

ロバート・ゼメキス(監督ではないが)の「少年マイロの火星冒険記3D」は、相変わらずのパフォーマンス・キャプチャーで製作されている。監督作品の場合も、そうでない場合も、ここ最近の彼の映画製作は、この俳優の本来の素顔を必要としなくてもよいという姿勢で貫かれている。

監督作品に限れば、2000年製作の「キャスト・アウェイ」以降の彼の映画はすべてこのパフォーマンス・キャプチャーで作られている。一旦俳優に役の動きを演じさせ、それをコンピューターに取り込み、CG加工のうえアニメ映画としているわけだ。この手法を是とするか、非とするかは別として、成功か失敗かはある。

ポーラー・エクスプレス」や「Disney'sクリスマス・キャロル」のように典型的ファンタジーであれば、その世界観を表すのに必要な手法かもしれないが、現実社会の描写にはそぐわないと考える。それを強く感じたのが、この「少年マイロ〜」であり、ロバート・ゼメキスの映画製作姿勢に『?』を感じる。

ゼメキスはもう人間の役者の肉体に興味がないのであろうか?いったい映画をどうしたいのだろうか?

映画の冒頭、少年マイロの日常の生活が描かれる。家のゴミを出して、ママの言いつけを守りなさいなどの、ごく普通の少年の生活だ。それを何故CGアニメで見せられなくてはならんのか?例えば「アバター」のように架空の世界の描写のための、パフォーマンス・キャピチャー使用であれば、SF映画の特撮画面としての必要性を感じるが、このマイロの生活はCGじゃないでしょう。

実際、ジャッキー・チェン映画のように、エンドクレジットにパフォーマンス・キャプチャーでの製作の裏側が紹介されるが、ボディスーツを着た俳優たちが、アニメの素材となる動きをしてみせている。この演技をそのまま撮影したら、普通に映画になるのに、と思ってしまうのだ。

この映画は、アメリカでも興行は大コケであり、日本でも配給のディズニーに気合は感じられず、見捨てられてしまった映画だ。これはもう全世界的にパフォーマンス・キャピチャーを用いた映画が飽きられている証拠ではないのか?例えば一昔前の例えとなってしまうが、フレディ・ハイモア君あたりの俳優がマイロを演じて、火星に行ってママを健気に救い出すという、特撮アドベンチャー映画だったらどうだったろうか?

物語の内容自体は、ファミリー映画の定番である。うるさい小言ばかりのママに“ママなんか、いなくなればいい!”と言ってしまったマイロは謝りたい、しかしママは火星人に拐われてしまった。同じ宇宙船に乗り込んで火星に行ったマイロはママを救い出し、謝る事ができるのだろうかというもの。そう、スタンダードな(アメリカ人が好きな)家族の絆のお話だ。

要するに語りつくされて、新しい話ではないが、これはこれで良い。しかし問題は、その普通の話にこの製作手法は合っていないということ。きっちりと感情移入が必要な話なのだから、やはり俳優の顔が必要だろう。火星人の娘の可愛らしさはCGキャラとして成功しているのだから、このキャラと俳優演技の合体で映画を成立させてほしかったのだ。

アニメはアニメで、「塔の上のラプンツェル」でディズニーアニメスタジオがCGで手書きアニメ感を出すことが出来た。そこまで到達した今、そこにパフォーマンス・キャプチャーは入り込む余地はない。そうなると、いったいロバート・ゼメキスはいったい何処へ行ってしまうのだろうと思わざるを得ない。

もう「フォレスト・ガンプ」や「コンタクト」のような映画は作らないのだろうか…。