伊丹十三映画の魅力

1975年の東映映画脚本、野上龍雄、監督中島貞夫の「暴力金脈」は総会屋の実態を描いた作品だ。現代にも総会屋がいるのかどうか知らないが、少なくとも75年当時は、企業の株主総会を仕切って、大企業から大金をせしめていた裏稼業があったことは事実だ。物語は一匹狼の駆け出し総会屋の松方弘樹が、幼なじみの暴力団の若頭(梅宮辰夫)と組んで、大阪から東京へ進出して、大企業に付いている総会屋の大物と対決するというもの。

実はそうしたストーリー展開については、それほどのめり込める面白さではなかった。しかし、駆け出し時代に小沢栄太郎扮するベテラン総会屋に教わる、駆け引きにおける巧妙な手口や、人間関係を利用したいわゆる裏取引の実態などの場面が面白く、社会の底辺に蠢く人間ドラマの要素を楽しんだ。

すると、『こうした知らなかった世界の、裏の実態をいつも映画にしていたのは、伊丹十三監督だったなぁ』と思い当った。そう、いつも伊丹映画は、口悪い輩からは、ウンチク映画と呼ばれるほど、誰も映画で取り上げなかった題材を見事にエンタテインメント作品にしてしまっていたのだ。「暴力金脈」に描かれる総会屋の世界も、ちょっと時代があとで、もう少し話が捻れていれば、伊丹映画となっていたんじゃないか。

伊丹監督の名前を思い出したのは、最近読み終わった東宝の社長である、高井英幸氏が書いた「映画館へは、麻布十番から都電に乗って」を読み終えたからか。その本の後半に「お葬式」を作り上げた伊丹監督が、その当時、映画調整部の部長であった高井氏に作品の配給を依頼しに来る件が面白く、なぜ伊丹映画がすべて東宝配給になったかが書かれている。その第一弾の「お葬式」は東宝でなく、ATG配給になったが、その時点で伊丹監督の才能を見抜いた高井氏の映画鑑賞眼にも恐れ入る。

1作目の「お葬式」2作目の「タンポポ」は実体験のことや、自分自身が考える食欲と性欲の概念といった、私小説的な映画であったが、3作目の「マルサの女」から変わった。そこから以降、取り上げたのは国税局査察課、民事暴力介入、政治家と芸者、身辺警護、スーパーマーケットの裏側と多岐にわたる題材であった。

そのタイトルは業界用語ともいうべきもので、査察官をマルサ、民事暴力介入はミンボー、そして今は「SP」で当たり前に“マルタイが到着しました”とか使っている身辺警護の対象人物をマルタイと言うことを、最初に教えてくれえたのも伊丹映画だった。意外と好きなのが「スーパーの女」で、これは庶民的な街のスーパーの裏側が(価格競争をはじめ顧客獲得合戦)面白く描かれていた。個人的にはこの映画があったればこそ、「県庁の星」も出来たのだ、と思っているほどだ。

こうした伊丹映画の面白さのDNAは、「マルサの女をマルサする」というメイキングビデオで注目された(なんとメイキングビデオがひとつの商品になった!)周防正行監督に継承され、アルタミラピクチャーズという制作母体をもって「シコふんじゃった」「Shall We ダンス?」などが作られたと言えよう。「それでもボクはやってない」の裁判の世界も、同じアルタミラ製作の「ハッピー・フライト」の飛行場の裏側も、結局は伊丹監督の徹底取材映画が根っこでしょう。

残念ながら、もう新しい伊丹映画(とブランド化した凄さ)は見ることは出来ない。その分伊丹チルドレンと呼んでもいい次の世代の周防監督や矢口史靖監督の新作に期待してしまうのである。「ダンシング・チャップリン」はドキュメンタリーであった分、次はそこに伊丹エッセンスを確認出来るようなドラマを作ってくれると本当に嬉しいのだが…。