「ザ・ファイター」に見るアメリカ

アメリカ映画がもっとも好んで描く題材は『家族』である。アカデミー賞を獲得した作品を見てみても、古くは「わが谷は緑なりき」から「サウンド・オブ・ミュージック」や「ゴッドファーザー」「普通の人々」「愛と追憶の日々」「アメリカン・ビューティ」など、すぐにでも思い出せる。

それ以外にも、いわゆる擬似家族として「ミリオンダラー・べイビー」と「グラントリノ」でイーストウッドが描いて見せた世界が好まれる。それに兄弟も加えると「レインマン」もある。アニメであっても「怪盗グルーの月泥棒」がヒットした要因は、グルーと孤児たちが家族となっていくハートウォーミングな部分があったからだろう。

クリスチャン・ベールが助演男優、メリッサ・レオが助演女優とWオスカー受賞作となった「ザ・ファイター」は、そんなアメリカ人の大好きな家族とHOMEの物語だ。ただし、心あたたまる一家の話ではない。最低な家族の物語だ。アメリカ映画を長く見ていると、アメリカの本当の負の部分(もしくは本当にダメな奴ら)を背負っているのは、黒人でもなく、アジア系でもなく、意外やプアホワイトと呼ばれる白人だと分かってくる。

そのプアホワイトの中に一人でも稼ぎ手がいようものなら、徹底的に依存する家族が存在するのだ。「ミリオンダラー〜」のヒラリー・スワンク扮する女性ボクサーも、そうした環境で育った設定だったが、この「ザ・ファイター」はさらに、その部分が物語の中心となる。これが事実に基ずくものであることに、今更ながら(もうひとつの)『アメリカ』を感じ、決してボクシング映画=アメリカンドリームばかりでないことが分かる。

そう、この映画は最低な家族が、ギリギリのところで崩壊を逃れ、栄光を獲得する物語であって、単純明快なボクシング映画ではないのだ。単にその手段がボクシングであったにすぎない。よって、痛快な勝利のハッピーエンドものかと思いきや、中盤までは、その家族の情けなさを見せつけられ、嫌な気分になりっぱなしだ。

その嫌な気分にさせてくれるのが、助演賞をとった二人の俳優だ。主人公のボクサー、ミッキーの兄、ディッキーとその母である。ディッキーはシュガーレイ・レナード(俺でも名前は知っている超有名なチャンピオン)と対戦して、どう見てもチャンプが転けただけなのに、ダウンを奪ったとして、その栄光に縛られ、薬に溺れている男。さらに、弟にボクシングを教えてたとして、常にトレーナーとして関り、振り回して行く。母はマネージャーとして金だけを判断基準に、無謀な試合を組むという、有り得ない一家だ。

そして兄弟二人を地元の英雄だと持ち上げるアメリカの片田舎が、もうひとつの主人公だ。そんな、(黒人が出てこない)街のHEROになってしまった兄は、その街の人々の期待のプレッシャーで薬に走ったのだろう。こうした隣り近所が近すぎる環境も、ある意味マイナスになるのだ。よってミッキーはこの街を出なければボクシング自体が続かないだろうと予想したのだが…。

映画は中盤まで、そんな兄と母の弟をふり回し続けていく日々を克明に描写する。兄の巻き添えで、ミッキーが警官に拳を潰される場面は悲惨でみていられない。映画への不満は後半にある。要するに、兄が刑務所から出てからの展開が、いささかご都合過ぎて、納得いかない。そんなに、皆ですぐに和解するものなのか?また拳が潰されてからのミッキーが太ってしまい、いざ、トレーニングを始めてから、すぐ試合と、葛藤と鍛錬の日々の描写がおざなりなのだ。

結局、母親役のメリッサ・レオ(嫌な役だけど見ごたえたっぷり)と、ミッキーの恋人役のエイミー・アダムスの二人に、かなり依存度大の作品なのだ。とくにエイミーは益々、いい女優になってきた。「魔法にかけられて」で認識した時は、この女優はお姫様役のみで、後は続かないだろうと言う予想を、いい意味で裏切ってくれた。「ナイト・ミュージアム2」は大手スタジオだが、この映画も、ワインスタイン・カンパニーの独立プロ作品のように、彼女はインディーズ映画に活路を見出したのだ。

「ダウト」「サンシャイン・クリーニング」「ジュリー&ジュリア」などで、リアルな女性像を演じて見せ、実力派だったと知らしめたのだ。今回も役だろうが、適度にお腹周りに脂肪をつけ、いかにも地方の街の酒場で働く女性になりきっていて、崩れた魅力を発揮している。メリッサ・レオより、エイミーに助演女優賞をあげたかったなぁ。

ともかく、脚本、演出とも難点が目立つ作品であるが、俳優たちの入魂の演技があり、なんとか見られる映画になったのであり、演技側に賞は行くが、それ以外は無理なことを確認しただけでしたね。