日韓、それぞれの戦争映画

日本映画は平山秀幸監督の「太平洋の奇跡−フォックスと呼ばれた男」、韓国映画は「私の頭の中の消しゴム」のイ・ジェハン監督の「戦火の中へ」と奇しくも同時期の公開となり、日韓それぞれの戦争映画を見ることが出来た。「太平洋〜」は文字どおり太平洋戦争、「戦火」は朝鮮戦争が題材となっている。

共通して言えることは、敗戦の瞬間と全滅(全員戦死ではないが)の瞬間を描いているところだ。「太平洋〜」は敗戦濃厚な南方戦線で、アメリカ軍に対し必死に抵抗を繰り広げる小隊と、それを指揮する隊長の物語。終戦を迎えていながら、負けを認めず降伏を受け入れない兵隊たちと、現実の敗戦の間で苦しむ。どう尊厳を持ちながら降伏を受け入れるかが、ラストの見せ場。

「戦火」は北朝鮮の猛攻に対し、劣勢に立たされた韓国軍の最後の兵隊、学徒兵71名全滅という衝撃の史実の物語。学徒出陣映画といえば、日本では岡本喜八監督の「英霊たちの応援歌」(この映画、もっと評価されていいと思う!)をはじめ数多くあるが、同じような(韓国は高校生のようだ)ことが朝鮮戦争であったことを初めて知った。そう、直接的に日本が関わったわけではない戦争のため(もっと知らなければいけないのだが)無知な部分が多い。

実は朝鮮戦争を教わったのはアメリカ映画から(中身ではなく、そこに戦争が起こったという事実)。ピーター・ボグダノヴィッチ監督の「ラストショー」だった。「アメリカン・グラフィティ」が明日ベトナムへ行く若者たちの一夜の物語のように、「ラスト〜」も明日、朝鮮戦争へ行く若者たちの青春だ。その町の映画館の最後の上映「赤い河」が失われゆく平和なアメリカの象徴として登場する。また近年ではイーストウッドの「グラントリノ」の主人公コワルスキーは朝鮮戦争(その後ベトナムも)へ行き、アジア人と戦争してきた男としてリアルに描かれていて、記憶に新しい。

「太平洋〜」でもリアルに感じたのは、こうした敗戦を受け入れない兵、もしくは知らずに逃げ回っていた兵の中から、戦後ずいぶん経ってから日本に帰還された、横井さんや小野田さんが生まれてしまったという悲劇だ。自分の記憶の中では中学生になろうとしていた。その時点でまだ戦争は終わっていなかったという事実が怖かった。映画の中では唐沢寿明扮するやくざな兵隊が、その敗戦を拒否する兵としてディフォルメして描かれ、これまた岡本喜八監督の「独立愚連隊」を思わせる。

「戦火」で面白かったところは「英霊たち〜」かと思いきや、学徒隊の中にも対立が生まれ、途中から「プラトーン」に変わっていくあたり。対立するのが部隊長役のTOPと両親を北朝鮮軍に殺され、復讐心によって志願してきた不良学生のクォン・サンウ。その対立していた二人が最後に助け合いながら、北朝鮮軍に抵抗しながら散っていく場面が、戦争アクション映画としての見どころにもなっている。

しかし本当の見せ場は、TOPが北朝鮮兵を殺すとき、その兵も『お母さん』と一言いう。それまで、敵は角が生えているバケモノと考えてきたのに、一番怖いときに同じことを言う、その事実にショックを受ける場面だ。この場面が、この映画のすべてを表現している。それは「太平洋」の井上真央にも言えて、家族を殺され、アメリカ人憎しとなっていた彼女が、たった一人生き残った赤ん坊をアメリカ人が救ったという事実と向き合い、どう憎しみに打ち克つか、が物語のハイライトでもあるのだ。

昭和という時代に強いこだわりを持つ平山監督(勝手にそう思っているのです!)は、個人的な面での昭和に対する総決算としては「信さん」で決着をつけ、大きな史実としての昭和に向かっては戦争という題材で総括して見せたように感じるのだった。そうしたスタンスが自然と観客側に伝わったようで、予想以上のヒットとなった。かくなる上は東宝は、今一度8・15シリーズを復活させ、良質な戦争映画を作っていくしかないと誰しも思うところだ。

「戦火」のラストで学徒兵で生き残った実際の人物のインタヴューがエンドクレジットで流れるが、そこがスピルバーグの「シンドラーのリスト」の若干の悪しき影響のように感じてしまうが、「消しゴム」と「サヨナライツカ」の監督というと、典型的韓流イメージと受け止めてしまっていたが、イ・ジェハン監督の確かな力量を確認が出来た1作だ。