女優を脱がすステータスはどこに?

ちょっと前のキネマ旬報誌上で、もうすぐ還暦を迎えようとしている桃井かおりさんが、スペシャル・インタヴューに答えて、デビューしたての頃の自分の裸(「赤い鳥、逃げた?」かな?ともかくデビュー当初は脱いでばかり)を評して、よくもまぁ裸を見せられたと言っている。彼女の出ている化粧品のCMじゃないが、30過ぎから身体のケアを心がけ、その成果で今のほうが自信があるとまで桃井さんは言っているのだ。

これぞ正真正銘の女優である。

自分が自信のある身体だと思ったら、還暦でも脱いでも構わないと、あっさりと答えているのだ(当然、役に見合うのが条件であるが)。それは年齢なんて関係ない、映画の物語に必要な画であれば、ということだろう。

例えば、「ヴィヨンの妻」の松たか子、例えば「悪人」の深津絵里。そうした主演女優賞クラスの演技を示した映画でも、少し前だったら(80年代までか?)もっと裸を見せてくれた筈だ。もっとストレートに言えば(少なくとも)バストトップは見せて、男優さんとのからみのシーンがちゃんとあり、それが映画にとって必要な場面だと誰しも思ってのである。

忍ぶ川」の栗原小巻、「火宅の人」の松坂慶子しかり、である。それらは裸を見せるのが大前提のにっかつロマンポルノではなく、大手の映画会社や、監督たちがこだわりの上に作った(こういう言い方は好きじゃないが)文芸作品なのだ。いや、それではにっかつに失礼だ。例は「ラブレター」の関根恵子、「女猫」の早乙女愛にしよう!

要するに女優が、これだったらスパッと脱いでも良いという企画、そしてそれを示す映画そのもののステータスが、いつの頃からか失われてしまっていることを、オヤジは嘆いているのだ。原因は分かっている。今はメディア内の媒体パワーが映画がNo1の時代では、すでになく、裸を売りにするのであれば、まずは写真集という構造になってしまったのだ。まぁ「不倫純愛」の嘉門洋子のようにメディアミックスとして、写真集、写真週刊誌、そして映画出演という例もあるが…。

個人的には、こうした写真集絶対主義の悪しき前例を作ってしまったのは、宮沢りえ篠山紀信によるヌード写真集のせいだと思っているが、大きく間違ってはいまい。加えて女優さんたちが所属するプロダクションの考え方の変化だ。『脱ぐ場面がある映画なんかに出たらCM出演ができなくなる』これだろう。そうなると女優としてのキャリアは、落ち目と見てしまうという情けなさ。これでは、ますます大人の観賞耐えうる映画など出来やしない!

1950年代の大映作品における若尾文子を例に取れば、確かにバストトップは見せていないが、かなり大胆な肌の露出がある。しかし会社を背負う大女優だった。大人の観客の期待に答えたのだ(もちろん作品内容が伴うことが大前提だが)!もう一度そうした業界の構図は望めないのだろうか。

具体的な例を言おう。木村大作キャメラを担当した「赤い月」主演は常盤貴子だった。「火宅の人」で松坂慶子の美しい裸体を捉えた大作さんのキャメラは、出し惜しみをする常盤を虚しく撮すだけだった。かつてTVドラマで脱いでしまい、今や門外不出の映像なんてあるから、よけいに事務所がガードするのか?もう一つの例は「さくらん」。吉原を舞台にしての花魁の世界を描く映画にもかかわらず、女優の裸に関しては、まったくの不完全燃焼だった。

例あげればきりがないが、結局それで主演女優賞を(昨年で言えば)獲得するのは「キャタピラー」に出た寺島しのぶではないか。彼女は作品として納得すれば「愛の流刑地」でも同様に、同じく昨年主演男優賞に輝く豊川悦司と絡んで魅せたではないか!そんな彼女を誰が脱いだから落ち目と見るのか?その寺島を「ヴァイブレータ」で脱がせた廣木隆一監督は、新作「軽蔑」で鈴木杏に白羽の矢を立てたようだ。楽しみである。

なぜ、こんな事を長々と語ってしまったかと言うと、以前に舞台を見て大変気に入った女優さんが、なんと写真週刊誌のグラビアで脱いでいるのを知ったからだ。拝見しました。美しかった!そしてもったいなかった!なぜ、写真週刊誌なのか?なぜ、映画じゃないのか?彼女のなかに映画出演という選択肢はなかったのであろうか?それとも映画というフィールドにはもう、『脱いでもいい』と思わせるステータスが無くなってしまっているのだろうか?それが気になって仕方がない…。