「あしたのジョー」の唯一の問題点

長編漫画の実写映画化ほど難しいものはないであろう。ましてやそれがアニメーションとなり、動く画と声のイメージが先に付いている題材であれば、なおさらだろう。「あしたのジョー」はそうした誰もが考える危険を見事に乗り切って映画化に成功した点で特筆すべきだと考える。

オープニングでビックリである。漫画の原作からイメージするドヤ街から、そこに彷徨うジョーの姿を捉えたカット、そしてタイトルバックにドーンと流れる音楽と来て、漫画ファン納得の画作りとなっているではないか!これは本当にキチンと原作である漫画を読み込んでいる、その漫画のコマを知っている作り手達が手がけているぞ!と思わせてくれたのだった。

その土台は美術さんだろう。CGに頼ることのない、ドヤ街と泪橋の設計には唸りますね。ここに手を抜かれては『泪橋を逆に渡る』が説得力無くなりますからね。そしてこれが昭和の時代の話であることを画で表しているわけなのですな。

作り手が漫画のひとコマを大事にしているのは、重要なエピソードはちゃんと入れてくれていること。マンモス西の鼻から出るウドンのカットは登場場面は違っているがちゃんとあるし、ウルフ金串のクロスカウンター返しをTVのスローモーションで解説する場面もある。そうした映画の一場面がまさに漫画のひとコマと繋がっているのだ。ハイライトのダウンしたジョーの方から力石を見上げるカットが最も良い例だろう。

声を出して喜んでしまったのは、段平が少年院に送った『あしたのために』の葉書に書かれた“矢吹丈様”の文字が原作どおりの字体だったこと。やるねぇとニッコリである。こうした原作ファンへの目配せがしっかりしているから、役者が肉体で演じる漫画のキャラクターも生きてきたのである。

しかし、そこで語らねばならないのは、この映画の唯一の問題点である後半の展開だ。要するに白木葉子の描き方が、この映画を『本当の』「あしたのジョー」にしていないのだ。演じている香里奈のイメージが違うとかの問題ではなく。彼女のセンチメンタリズムが作品の後半を支配してしまっている問題なのである。

葉子がドヤ街の出身という過去を持ち、それが故にドヤ街に開発の手を伸ばして、自分の過去ともども消してしまおうとするエピソードは、女性の脚本家のセンチメンタリズムが、白木葉子に投影されている、余計なエピソードと言わざるをえない。確かに葉子はカーロス・リベラを日本に連れてきたり、ジョーの人生に大きく関わることになるのだが、それは力石とジョーの闘いの後である。この時点では力石に白湯を飲ませようとする財閥のお嬢様で止めておくべきである。

以上のためストイックな男同士の闘いに妙なウェット感が入り込んでしまったのである。あぁ、もったいねぇ!!そして泪橋でジョーに力石との試合を止めて欲しいと土下座した葉子に、ジョーの顔が近づくカットなんてジャニオタへのサービスカット以外の何ものでもない。残念ながらそのカットだけは、山下智久がジョーではなく山Pになっていたのだった!

その(大きな)問題点を除けば、大成功の漫画の実写映画化だったのだが、意外なところに落とし穴があったとしか言いようがない。よって山下もまだやりたそうだったから、これは違う脚本家に任せて、奈良橋陽子さんに依頼してカーロスやホセ・メンドーサ役をキャスティングしてもらって「2」を作ってリベンジするしかないでしょう