角川映画の思い出

角川映画主題歌集というCDが発売され、ある一世代にとってはマストアイテムになっているようだ。今年で35周年を迎えた角川映画(実はもうこの名前はなく、書店に吸収されちまった)は80年代の日本の映画業界に新風を巻き起こし、今では当たり前の原作や音楽を連動させ、TVスポットを大量投下するという、いわゆるメディアミックスという宣伝戦略を確立した。

それまでの映画界は主演俳優(例えば加山雄三)が歌を唄うことはあったが、それは映画の中とレコードだけの世界で、一般のお茶の間に無理やりのように侵入してくることはなかった。映画業界、音楽業界の、その番組単位で人目に触れる事が大前提だった。映画館に客がこなくなったのは、タダで映画を放送するTVがあるせいだ!と目の敵にしていたほどだ。

そんな疲弊した映画業界にさっそうと現れたのが、角川春樹というプロデューサーだ。“大胆なキャッチコピーと耳に残る主題歌のフレーズ”を今まで目の敵とされてきたTVの電波にのせたのだ。今でも語種になっている旧日比谷映画での、製作第1作目の「犬神家の一族」の公開初日の大行列。見事に『金田一さん、事件です!』のキャッチコピーが勝利した瞬間だった。

基本的には、映画化されるものはすべて原作があり、角川文庫で発売されるのが基本だった。続々と作られた作品「人間の証明」「野生の証明」は森村誠一、「復活の日」は小松左京、「セーラー服と機関銃」は赤川次郎、「戦国自衛隊」は半村良と挙げればきりがないが、すべて原作ものだ。初期は大作路線で1本立興行。しかし大作は金がかかり、リスキーだったので、春樹Pは次の手を打ってくる。

それが、アイドル女優を全面に押し出した2本立興行だ。角川映画のオーディションで発掘された薬師丸ひろ子原田知世を軸にした(今で言うライトノベルかな?)大長編の原作ではない小説を題材とし、安い製作費でありながら、ファンの心を掴む良質な作品を作って来たのだった。筒井康隆の「時をかける少女眉村卓(「僕と妻の1778の物語」で脚光を浴びていますがSF小説の作家ですね)の「ねらわれた学園」、そして片岡義男の「スローなブギにしてくれ」といった具合である。

角川映画が行ったもうひとつの革新的な事柄は、当時まだ発展途上だった映画のビデオを公開初日に、同時発売したことだ。「汚れた英雄」「伊賀忍法帳」で火をつけ、「探偵物語」(もちろん松田優作のTVではないですよ)と「時をかける少女」で爆発させたのだった。ポニーキャニオンを販社として1本14,800円で発売したのだが、土曜日の公開初日に2本立を見終わったファンが店に来て、2本29,600円で次々と買って帰る様は、壮観と言ってもよいほどだった(すいません、現場で売ってたもので)。

そして角川映画の思い出として忘れられないのは、大作だったら南極までロケにいってしまう撮影部隊だが、アイドル映画の撮影はほとんど都内ロケ(予算の関係でしょうね)だったため、その撮影現場に出くわしたことだ。「愛情物語」のロケは今の日比谷シャンテ前、今は無き日比谷三信ビルを(倉敷あたりだっと記憶するが定かでない)古い街並みの建物として利用し、屋上からキャメラが下に自転車で走ってくる知世ちゃんを狙ったワンカットを撮っていた。周りは凄い人だかりで、どうやら映画の撮影らしいといった野次馬ばかり、すぐそこに知世ちゃんがいるのに誰も気がつかない状態だった。

映画屋さんたちの、なにが凄いかって画面にいらないものが写ってしまうものは退けてしまえ!の精神。その時も、どうしても三信ビルからにキャメラに一般の人が止めた車が入ってしまうので、スタッフが6人ぐらいで、車を持ち上げて移動させてしまったのにはビックリだった。もうひとつの日比谷界隈でのロケに出くわしたのが傑作「Wの悲劇」のラストシーンの撮影現場。これも今は無き旧日比谷スカラ座の2階から降りて来ることができる名物階段を利用しての夜のロケだった。

ユニークだったのはエキストラの現地調達。夜の日比谷の街を歩いているOLさんたちに助監督(セカンドぐらいか?)が片っ端から声をかけ、薬師丸ひろ子が、階段を降りてくる場面を見上げる観客役になってもらっていたこと。ねっ、いかに当時のプログラムピクチャーの製作費が少ないかを物語るエピソードでしょ。角川映画じゃないけど、六本木交差点で「野蛮人のように」のロケにもぶつかり、可哀想な助監督(これはサードでしょう)が酔っ払いに絡まれ、平身低頭して走り回っていたこともあった。

そう、角川映画に限らず、当時の映画は『その辺』で撮られていたのであった。映画そのものの楽しさと共に角川映画と聞くと、そうした現場の作り手たちのバイタリティを思い出さずにはいられないのである。