「ヌードの夜」と石井隆のこと

石井隆のエロ劇画を見たのは、一体いつ頃のことだろうか?記憶を辿ると、たぶん二十歳を過ぎたか、過ぎないかの頃、エロ漫画雑誌が沢山置いてある喫茶店ではないかと思う。竹中直人さんが言ったように、原っぱあたりに捨てられていた(竹中さんは港の片隅だったが)エロ漫画という可能性もあったが、石井隆の略歴を調べてみると、デヴューの時期と年代的に合わないので、やはり喫茶店だろう。

その印象は強烈であった。いつも雨が降っているような場面、濡れて乱れた女の髪、剥ぎ取らた服の下の裸体、腋毛、などレイプをイメージさせるエロい画に目を奪われた。よって場面、場面としての画のインパクトが強く、ストーリーは全く頭に入ってこなかった。

そうした一場面の画力が強ければ、当時の日活ロマンポルノが放っておく筈がなく、当然のように映画化となる。「天使のはらわた 赤い教室」との出会いである。かなり以前に日活関係者と「天使〜」シリーズでは「赤い教室」派か、「赤い印画」派かと論議になったが圧倒的に「教室」派だ。数あるロマンポルノ作品で、おそらくTOP5に入ってくるだろう(何かの機会にロマンポルノベスト10をやろう)。

しかし、その時点での石井隆へのイメージはまだ、原作者にしか過ぎなかった。88年に「天使のはらわた 赤い眩暈」で映画監督となっても、いわゆる80年代に続々登場した異業種映画監督のひとり程度だった。北野武の「その男、凶暴につき」の1年前、和田誠の「麻雀放浪記」の4年後というポジション。ロマンポルノも終焉を迎えようとしていて、いささか興味も失っていたので、残念ながら「赤い眩暈」は見ていないのである。

90年代前半にアルゴピクチャーズを中心に製作した「死んでもいい」「ヌードの夜」「夜がまた来る」の3作も当時は見ておらず、「ヌード〜」だけ昨年の「ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う」の公開記念の銀座シネパトスでのレイトショーで追いついた程度の熱心な監督ファンではなかった。

「GONIN」2部作、「花と蛇」2部作と見てはいる。しかし原体験が村木と名美からきているので、静子夫人は石井隆ワールドなのだろうか?との疑問を持ちながらも堪能した次第だった。

そして、今回「ヌードの夜 愛は〜」となり、10月のR-15版は見逃してしまったので、「ディレクターズカット」R-18版を見に銀座シネパトスに出かけた。でも見る前の予想は前作の「ヌード」のせいぜい過激版で、また女に騙され紅次郎が悲惨な目に合うんだろうぐらいにしか考えていなかった。

そんな自分は甘かったですな。監督の描く女性像が一人ではなく合計4人に驚き(正確には『たえ』という女性も入れて五人か?)、そのうちのひとり『加藤れん』の自らの魂を救い出す手段としての連続殺人の、残酷さと哀しさに心奪われてしまったのだ。ここには紅次郎の本名である村木はいるが、名美はおらず、れんがいるだけだ。またしても女に翻弄されボロボロになる次郎というプロットは変わらないものの、その女達の凄さ、怖さ、哀しさの深さが格段なのだ。

よって、れんの殺人を肯定する感情が次郎ともども観客側にも生まれてしまうのだった。そうすると最後にれんを殺した女刑事をどう見るかが、評価の分かれ目となってくる。ラストの女刑事の差し入れを、あくまで次郎は拒否してもよかったんじゃなかろうか?いささか甘いラストの気がする。ファム・ファタールの呪縛から開放されないラストのほうが「ヌード〜」としては受け入れられる気がしたのだ。

そもそも、この女刑事の次郎とれんに対する感情が、嫉妬なのか、純粋に捜査なのかが、はっきりしない。やはり殺人者側に思い入れしやすく描いた脚本が、逆に仇になってしまった感がある。もうひとつ言えば、富士の樹海でなくしたローレックを見つけた次郎が、依頼者の守秘義務があるのに女刑事に、肉片付きのローレックスを預けていいのか?まぁ、それが紅次郎の『らしい』ところではあるが。

演技陣では、大竹しのぶ宍戸錠が支えとなっている。まったく2010年1年間で、「オカンの嫁入り」「信さん」「ダーリンは外国人」そして、この映画とそれぞれに違う顔をみせる大竹さんは本当に凄い!佐藤寛子は演技うんぬんの前に、肉体の存在感で見事に勝負した。名美は出来ないだろうが、れんは出来たのではなかろうか。

しかし、ダイナミックなキャメラワークで映し出される究極のファンファタール物語に石井隆の真の才能を見たことが、これほど嬉しいとは思わなかった。見事なお手前でした。