「マチェーテ」と「ビッチ・スラップ」の差について

クエンティン・タランティーノロバート・ロドリゲスの二人の登場とその後の映画界に及ぼした影響というのは本当に大きかったようだ。「ビッチ・スラップ」という愛すべきC級映画はいわゆる正統的なグラインドハウスムービーのひとつだ。上記の二人がこよなく愛する世界ではあるが、追ってすぐに「マチェーテ」を見てしまうと、その2本の映画の間には大きな差があることが分かってしまう。

これを単なるキャリアと予算の差と片付けていいのだろうか?映画の本質はその部分を考慮してなおかつ見極めるものだろう。要するに「ビッチ〜」の派手だけれど、いまいち弾けないで終わったのはどこに原因があるかを探るのが、逆に「ビッチ〜」を監督したリック・ジェイコブソンに対する礼儀(やや大袈裟か?)だろう。

「ビッチ〜」のタイトルバックからして、70年代以前のB、C級映画に対してのオマージュ満載(というかロジャー・コーマンへか?)で、おっぱいのアップについてはラス・メイヤーも入っていて“やりたいことわかるなぁ”である。しかし物語が始まると“どうして、そこまでタラの時間軸タッチに媚びなきゃならんのよ!”とすぐ印象が悪くなってしまった。

いわゆるクライマックス直前から映画が始まり、すぐに事件の発端あたりへ話が飛ぶという、あのパターン(何度もくり返される)だ。この影響は日本ではクドカン脚本でも見られ、悪しき影響を見るときがあるが、アメリカ映画でも本当に多くなった。

女3人の丁々発止のアクションは悪くないが、いつまでも『魅せたい』のスタイリッシュ画面が優先してしまって飽きてくる。「マチェーテ」におけるミッシェル・ロドリゲスの再登場場面のカタルシスと比較すると、その違いがはっきりするだろう(またはリンジー・ローハンのラストの大アクション!)。

そして、これは「ビッチ〜」だけの問題じゃないけれど、簡単にCGで風景画面が合成できてしまうので、話の展開を大きく見せてしまいたくなってくる勘違いが多いという点。後半どんどん『彼女はスパイで、世界を股にかけるエージェントでした』と膨らんでしまい、その合成アクションに興醒めとなる。

マチェーテ」は、ここの展開の部分が上手い。あくまでメキシコとアメリカの国境における密入国にまつわる事件とアクションのみで、“そこで、やっている!”のだ。これは結構重要で、もし「ビッチ〜」が砂漠のあの一箇所だけで(かなり脚本に苦労するだろうが)話を完結させていれば、すごく面白かったと思う(それは予算の差じゃないよねぇ)。

あとは男の顔の差だな。いかにエロい女を魅せる映画と言えども、悪役をはじめ男の登場があるかぎり、いい顔の男が必要ではないか。それはロバート・デ・ニーロクラスの俳優でなくてもよいということが、「マチェーテ」のチーチ・マリンの顔が証明している(ダニー・トレホの主役自体がそうですな)。

B級なりにも、やはり『技』が必要であるということが、こうした2本を比べてみればよくわかるだろう。その技の根本はやはり脚本。まずはタランティーノ系の呪縛から脱しなければなりませんな。まあ、ロドリゲスは同格なのだから、そんな心配はないけど。

ただ「マチェーテ」の弱点はジェシカ・アルバ。この設定の役(入国管理捜査官?)に対して彼女はいささか線が細い。贅沢を言わせてもらえれば、この役はエヴァ・メンデスでしょ。ただ登場する女優陣の露出度はなかなか良く、名前は分らないけど、リンジー・ローハンの母親役の熟女女優はいいですな。

もっと「マチェーテ」のような贔屓にできるようなアクション映画が出来てくれれば、アメリカ映画の今のフンづまり状態(企画力の無さ)が少しでも改善されるのだろうが…