「花と蛇」は銀座シネパトスで

日活ロマンポルノ、谷ナオミ版「花と蛇」を見たのは高校生の頃だったろうか?実はそれほどの衝撃はなかった。なぜなら順番が逆になったのかもしれないが(製作年度は同じ1974年)、それ以前に「生贄夫人」を見てしまい、その衝撃度の方がはるかに強かったからだ。まあ、どちらにしろこの2本で日活ロマンポルノにおけるSM映画路線の成功は確約されたと言ってもよく、自分自身でも他のロマンポルノジャンル(他にも女囚、青春、コメディ、ストリップなど様々)より好んで見ていたなぁ。

ロマンポルノ終了後、団鬼六ものはVシネものでの欠かせない路線になったが、やはり映画になってこそ団鬼六の名が光るのは明白で、今度は東映杉本彩で映画にした。その作品の上映出来る映画館は都内ではやはりポルノ映画上映館のDNAを併せ持つ銀座シネパトスでしかないのだ(もちろんパトスの魅力はそれだけではないのだが)。

よって彩版の「1」「2」共にパトス上映となり、最初の「花と蛇」の初日の舞台挨拶には思わず駆けつけたりもした。このシリーズはやはり、銀座シネパトスで見るのが一番合っているのだ。「1」は渋谷イメージフォーラムなんかでも上映したが、それはかつてロマンポルノを渋谷シネクイントで女性限定で上映して、いかにも“ポルノもおしゃれよ!”と媚を売ったことと同じで、やっちゃあいけないことなのである。そして今回「3」が出来上がりちゃんとパトス上映となった次第だ。

その「3」を語る前に彩版を語ると、彩版の静子夫人は明らかに西洋風味であり、谷ナオミさんの和風のテイストとは無縁で、ましてや原作の主人公とも違っていた。しかしこれは成功であり「花と蛇」が「O嬢の物語」にどこまで近づくかのチャレンジだと受け取ったし、ましてや「2」はパリを舞台にしてしまっては明らかに「O嬢」への意識を感じるではないか。また彩さんが得意なタンゴを獲り入れることで一層西洋風味をかもし出すことに成功していた。しかしながら実は彩さんの見事なプロポーションはSMには(正確にいうと縛りには)不向きなのである。要するに美しすぎメリハリのありすぎるボディで縄が合わないのだ。

「3」の製作陣はその辺が分かったのだろう。今回は縄が食い込むのに最高の肉を持っている小向美奈子という女優を持ってきた。グラビアアイドルからストリッパーに転進して、まだ女優と呼んではいけないかもしれないが、自らスライム乳というオッパイが縄を食い込ませるには最適なパーツなのだ。若干垂れ気味のオッパイが縄の力で前に飛び出す、これぞ緊縛美なのである。

ところが、そうした『絵』としての部分は良いものの、これでは「花と蛇」の静子夫人ではないなぁ、とガッカリの結果となった。なにが足りないのかを考えると、それは『気品』ということになる。鬼源(今回は火野正平!)に徹底的に凌辱されてもなお、気品ある美しさで最後には男たちをひれ伏させる、その構図こそが「花と蛇」であるはずなのに、そこが最初から皆無なのである。まあ、今回の小向さんにそれを求めるのは無理ということで、最初から気品無きエロで楽しめば良いのであるが、それを許してしまうとラストの鬼源が静子夫人を独占するがための夫殺しの説得力がなくなってしまうという負のスパイラルとなってしまうのだ。

だから一番の見所はエンドクレジットの様々な責めと縛りのパターン映像となる。演技ではなく『縛りの絵』が魅せるのだ。もうひとつの欠点は、舞台となるお屋敷にも現れているが、『和』でいきたいのか『洋』でいきたいのか分からず、結局『和洋折衷』でお茶を濁しているところ。チェロ弾きなのだから洋でいくかと思いきや、お風呂と責めの場は和で統一されて、お屋敷の外観とあっていない。食事と寝室は洋で、そこに赤フンが登場するから一層違和感を覚えるのである。

結局、この映画は責め甲斐のある肉体を持った女性に出会った鬼源が、その女を自分の好みにしたて独占するという裏の面白さがすべて。よってキャスティングに火野が必要だったのだとエンドクレジットを見ていて腑に落ちたのだった。次はこの鬼源でのシリーズってどうですか?