「十三人の刺客」東映対東宝

工藤栄一の傑作時代劇「十三人の刺客」がリメイクされた。東映が作った時代劇を東宝がリメイクである。いささか不思議だ。また、相変わらず、キネマ旬報ではキチンとリメイクと語っているのに映画そのもののプレスや宣伝文句などにはリメイクのリの字もなしだ。

東映版を見たのは、今はなき『仁侠映画の聖地』と呼ばれた伝説の映画館、新宿昭和館であった。すでに黒澤監督の「七人の侍」は見ていたので、なんだか数だけ多いおんなじ様な時代劇なんだろうと思って見ていたら、ビックリする面白さであったことをよく覚えている。

しかし、東映版を見てから相当の年月が経っていて、かなりの細部にわたり記憶があいまいになっており、ファーストシーンの切腹した侍のカットや、後半のシネスコ画面を縦に使った構図などのパーツは記憶にあるものの他の部分がいささか心もとない。東宝の試写室で三池崇史版をすでに見終わっていたものの、東映版を再見してから書こうと決めていたところ、幸いに新文芸座にて月形龍之介特集上映でかかったので再見した。

今回の東宝版、三池監督だから『マカロニ時代劇のような』ものじゃないかな、と予想していたものの前半は(いい意味で)見事に裏切られる。東映版へのリスペクトなのか、カッと割りから構図まで、非常にチャンとした時代劇なのでビックリ。十二人集まるまでの過程や、それぞれの武士の抱えるもの描写もしっかりしており、前作に負けぬ重厚感。唯一の違い(欠点とは言いたくないが)暴君の手にかかった少女の様子だとか、牧野家での殺しの場面とか、見せ過ぎというか過激な描写の部分だろう。

これを監督は“今の観客により分からせるためのリアルさ”と言っているが、そこまで見せなくても、と思うが時代がそうした描写を求めていることも事実だ。しかし参勤交代の行列の場面は、見事にちゃんとしていて好感が持てる。現代の映画で特撮で誤魔化していない参勤交代の場面は珍しい。

ところが三池版、山の中から伊勢谷が(十三人目)登場してからがおかしくなる。東映版は落合宿にいる若者(山城さん!)が『男』として認められたく(藤純子さんに)血気盛んに参加するのだが、この伊勢谷に三池は『侍とは?』の思いを託し、映画全体の請け負う部分が前作より圧倒的に多い。あげく落合宿の庄屋(一徳さん怪演!)のカマを掘ることで映画は崩壊する。

結果これは侍よりガンマンの様相だ。「ワイルドバンチ」に近いものが多い(ペキンパーに失礼かな)。死を覚悟した男たちは女を求める、これが過激になると最後は男の尻か?その後はひたすら血みどろのチャンバラだ。暗殺集団の首領の役所さん扮する島田まで『斬りまくる』。ここも東映版との大きな違い。東映版はあくまで千恵蔵御大の映画という側面もあるので
島田は最後に暴君を斬る場面しか刀を抜かないのだ。

そして君主を殺した限り、死なねばならないのが武士であるから、かつての道場の同門半兵衛との対決に刀を抜かず、刺されて果てるのだ。そうした場面の数々の違いを両作品を見て比較してしまうと東映版と東宝版の決定的な違いは何か?それは『品格』だということななる。作品の品格、描かれている武士としての品格などなど、迫力あるアクションがすべてではないということが良く分かる。

決定的なのが、すべてが終わった後、暴君に殺されたと誰もが思った伊勢谷が生きていて、山田孝之扮する島田の甥の新六郎に“不死身かよ!”と言わせるだけで終わるそのいい加減さ。前半の三池ワールドを封印していたストレスを、後半すべて解消するべく全開してしまって、いつのの三池映画となりました。

そんな中、本格派の時代劇役者のひとり松方さんの出演が救いだ。殺陣の場面の静と動のバランスの見事なこと。かつて「激突」で千葉真一と壮絶な殺陣を演じた時から変わっていないんじゃないかと思えるほどの凄さだ。東映版では嵐寛寿郎が演じた役だが、その殺陣の中で見せる『見栄をきる』瞬間は同じなのであった。

もうひとつの前作以上の部分は暴君を演じた稲垣吾郎の残忍さだ。これは見せ過ぎという部分と背中合わせであるが、キャスティングの成功だろう。最後の殺され方も納得だし、なにより侍が侍でない時代の退屈な時代を諦めた暴君に一番の人間描写を感じさせるものがあるのだ。

それにしてもジャニーズにこんな暴君を(時代劇といえども)演じさせてしまっていいのだろうか?それともジャニーズか変わっていかなければならない時代なのだろうか?