市川崑の「野火」を見て

かつて恐怖映画とともに日本の夏興行を賑わせていた映画のジャンルは戦争映画であった。東宝は8・15シリーズと終戦日のネーミングにあわせ「軍閥」とか「沖縄決戦」とか封切っていましたね。今でも夏には一部の名画座で『8月15日終戦の日特別企画』として(主は反戦主題の)戦争映画が上映されている。

この手の戦場におけるドンパチではない、戦争映画の大半の主題となるのは軍隊と言う組織の異常な状況下における非人間性の描写だろう。それをズバリ描いた代表作が市川崑監督の「野火」と言えるだろう。

戦中でも、戦後でも、そして戦場でも戦争が引き起こす最大の罪は“餓え”だという一点。もちろんチャップリンが「殺人狂時代」で描いた『100万人殺せば英雄で、1人殺せば殺人か?』のように戦争と殺人も大きな罪の部分ではあるが、人間は餓えれば、その殺人ですら平気で行い、餓えから逃れようとする、そこまで「野火」は描いているのだ。

終戦間際のフィリピン戦線。日本軍はことごとく米軍にやられ各部隊は孤立状態で、個人で大きな部隊がある場所まで移動を強いられるという極限状況での一人の兵士が主人公(船越英二)。後半には兵士は3人となる。『猿』の肉を獲って生き延びようとする二人の兵士に扮するのは滝沢修ミッキー・カーチスという異色キャスト。猿の肉とは?そんなものは無いのは映画を見ていれば分かってくる。むしろ中盤に出会う班長さんのほうが『人肉食って生き延びてるんだ!』と息巻いている方が潔いという状況だ。

「野火」とは日本におけるお百姓さんが、刈り入れ後の草とかを畑で燃やすことだが、戦場ではゲリラ隊の狼煙なのだが、極限下の兵士たちには見分けがつかなくなってくるというものだ。戦争と餓えは「火垂るの墓」の様に庶民に対する悪夢のほうが今までの印象だったが、この映画を見てから先ず襲われるのは兵士からだったのだ、と平和な日本で再確認してしまい、それが映画から確認出来るのは今が平和だからなのだろう…。
とりあえず、そう思いたい。